第三章 食の塩

Ⅰ.和食の源流

1.豊かな縄文食

約一万年前の縄文時代、氷河が溶けて温暖化が進み、暖流が流れるようになると、海面が三メートルも上昇、関西では瀬戸内海が誕生し、関東の霞ヶ浦も海が内陸まで入り込んだ現在の日本列島の形になった。

やがて温暖で湿気の多い気候になると、照葉樹や落葉樹の森がうまれ、木の実や新芽、野草などの山の幸に恵まれた環境が生まれてくると、イノシシや鹿を食べる小動物が生息、森の周りに人が住みつくようになる。これまで草原だった陸地が水位の上昇で、遠浅の海になり、魚や貝を獲って食料にする生活に変わった。

縄文人の暮らしは、縄文遺跡に遺された「貝塚」を調べる考古学の研究で知ることができる。日本全国の貝塚の動物や魚介類の骨の調査で、真鯛やフナをはじめ、二百種の魚、二百七十種の貝類、二十種類の動物、海藻等々、千五百種に及ぶ動植物を食べていたことが発見されている。森ではイノシシやシカなどの狩猟や四季折々に、クルミ、どんぐりなどの木の実などを採取し、海では旬の魚や貝の捕獲できる、食物に恵まれ生活環境であったことがうかがえる。

人の歯が草食に適した臼歯や小さな犬歯のかたちに進化したのは、日常の主な食物が草や木の実、穀物であったことを物語っている。日本人の祖先は、雑食民族だったのである。雑食の食文化では、おのずと微妙な味を見分ける感覚が発達する。

味覚の研究では、外国人と較べて日本人にはうま味の受容体が発達していることが解明されている。西洋の味覚は、甘い、塩辛い、酸っぱい、ピリッと辛い、四つの味であり、中国はそれに苦味が加わって五味になるが、日本人の味覚は、さらに渋味とうま味を加えた七味の味覚を持っているといわれ、味を見分ける能力は、日本人の舌の感受性を育て、繊細な味覚の遺伝子が深く刷り込まれている。

 

2.縄文土器の発明

明治10年(1877)、来日した米国の動物学者エドワード・モースが、横浜から東京に向かう汽車の中から大森貝塚を発見し、ここの調査で見つけた土器に縄の目の模様があることから、縄文土器の名がつけられた。

貝塚は、縄文人の‟ゴミ捨て場”といわれているが、何が捨てられたものかを調査すると、どんなものを食べていたか、どんな生活をしていたのかなど、縄文人の暮らしぶりを知ることができる貴重な遺跡である。

海浜の縄文遺跡の貝塚から、幾重にも重なった貝殻の層のなかに、土器の破片が大量に発掘される。縄文土器は、石器時代から縄文時代に移る歴史の象徴で、土器の発明は、食物の保存、煮炊きの調理道具として、料理文化の新たなステージの出発点となった。わが国の料理文化は、土器に始まったのである。

土器で煮る、茹でることで、硬い穀物や根菜が柔らかくなり、ドングリやトチの実を熱湯でアク抜き、魚介類のたんぱく質を固めるなどの調理を可能にした。

粘土でできた素焼きの器は、煮炊きのほかに、小さなものは食器となり、大きな土器は収穫した食料の保存する壺、水を運ぶ道具として使われた。

土器の発明は、調理の始まりと同時に、海水を煮詰めて塩をつくる製塩の始まりでもあった。海沿いの集落では、海水で貝を煮て、身を取り出して干し貝をつくり、貝を煮た残りの濃縮した塩水を、さらに煮詰め、塩の結晶を採取した。海浜近くの貝塚に膨大な量の貝殻の層ができているのは、土器製塩が行われていた遺跡である。

近年、霞が浦の浮島で縄文時代の製塩遺跡が発見され、この遺跡から、製塩土器が出土。『常陸国風土記』に「乗浜の里の東に浮島の村あり。四面絶海にして、山と野が交錯し、戸一十五烟、田は六十七町余なり。百姓は塩を火にて業と為す」と記され、塩づくりの専業集落があったことを物語っている。

初期の製塩土器は、口径が20センチから30センチで、底が尖っており、複数の土器を直接砂浜に突き刺して石の炉を焚いて海水を煮つめて塩の結晶を採取していたが、時代が進むにつれ、製塩土器は次第に薄くなって、口径10センチ前後の小型の薄い土器が使われるようになっていく。それは濃い海水を煮つめるのに熱効率を高めるように工夫されたものだと考えられる。

土器製塩は、縄文晩期(BC500年)には関東一円に広がり、東日本から瀬戸内海に波及、しだいに北九州、紀伊半島、東海地方に広がつていった。

製塩土器でつくられた干し貝や塩水に浸した魚の干物や塩漬け魚は、貴重なたんぱく源として、山村の農産物と物々交換に流通した。遠く離れた内陸部の縄文遺跡からも海浜と同じ製塩土器が発掘されていることから、土器に入れた塩が交易品として流通したことを物語っている。こうした塩製品の交易に使われた漁村と山村を結ぶ道を「塩の道」とよばれ、経済、文化交流の道として発展していった。

 

3.米の食文化

世界の国々の伝統的な食文化は、その国独自の気候や風土に生育した食物を収穫し、調理を工夫して美味しく食べる。料理は先人の知恵の伝承である。

世界の中心的な農作物は、米、小麦、トウモロコシなどのイネ科の植物が栽培の主

流である。これらの穀物は、ひと粒の種から何百、何千と増えて、実りの収穫できるため、安定した食料の供給が確保されるようになると、それまでの採取・狩猟生活から、定着した農耕生活に変わり、穀物は人々の生きる糧となった。

気候的な条件で地球上の作物の分布をみると、米の栽培には、稲の生育に欠かせない、豊富な水に恵まれた環境が必要となるため、おもに温暖多雨のモンスーン地帯の東アジアを中心に広がっている。

一方、麦の栽培は寒冷で乾燥したところでも収穫ができ、世界の四大文明の地、メソポタミアで発達した麦の食文化は、西アジアからヨーロッパに広範にわたり伝播され、農耕を営みながら牧畜を兼ねた麦の食文化が発達した。

なかでも寒冷で穀物の栽培が困難なヨーロッパでは、体温を維持するために肉や乳に依存した食生活が中心となる。国により異なった食文化は、その地の気候風土に適応してきた数千年の進化の過程で、人々の遺伝子にインプットされている。

八千年前に中国の雲南に発祥した稲は、揚子江の下流域で栽培され、東南アジアのモンスーン地帯に広がり、約2500年前、縄文の終わりころから弥生時代にかけて、大陸から稲作民族が西日本へ移住、農耕生活が始まると稲の収穫によって毎年、安定した食料が得られるようになると、全国各地に大きな集落が出現する。「瑞穂の国」と謳われた米の食文化の開幕である。

わが国に伝播した米は、丸みを帯びた粒のジャポニカ種で、幅と厚さがあり、炊くと粘りと甘味のあるご飯になる。はじめは土器で煮て粥にして食べていたが、古墳時代になると「甑(せいろ)」で蒸したご飯が登場、平安時代に鉄釜が普及して、水分の多いふっくらとしたご飯ができるようになった。

ご飯には、ほのかな香りと噛むと淡い甘味が感じられ、塩気や辛味のある副食が加わることで、はじめて美味しさが味覚される。米などの植物性の食物は、カリウムが多く含まれ、ミネラルバランスを保持するのにナトリウム(塩)の摂取が不可欠である。

ご飯と塩味の美味しさは、「握り飯」で象徴されるように、ご飯と塩気の副食の組み合わせが和食の味覚の源流である。

 

4.藻塩焼製塩

約2500年前、縄文の終わりころから弥生時代にかけて、大陸から稲作民族が西日本へ移住、農耕生活が始まる。集落の人口が増えるにともない、料理・調理用の塩、家畜の飼料など、日常の暮らしに塩が大量に消費されるようになり、生活必需品の塩づくりが本格化してくる。

縄文時代の海水を直に土器で煮つめる製塩から、干した海藻に海水を注いで海藻の表面の塩粒を溶かして濃縮塩水をつくり、土器で煮詰める製塩法が広まった。

稲作民族と一緒に渡来した製塩法が「藻塩焼」である。

万葉集に「淡路島松帆の浦に朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ」と謳われ、この煙が、あたかも海藻を焼いているように見えることから”藻塩焼き”と呼ばれたのが、名前の由来である。万葉集や風土記に「藻塩焼く」「藻塩垂る」という藻塩焼の方法を示唆した絵図や詩歌から推測された言葉である。

塩の研究者の間で、藻塩焼を学術的に解き明かそうとしてきたが、古代の製塩法について具体的に記された史料はまだ見つかっていない。海藻を焼いた灰を海水で濾して濃縮してから土器で煮詰める説、海藻灰を団子にしたものなど、諸説がある。 

塩づくりの神様、塩土老翁が祀られている宮城県の塩竈神社では、毎年7月になると、御釜社で「藻塩焼神事」がとりおこなわれている。

海藻のホンダワの採取に始まり、炉にのせた平らな鉄釜に竹を編んだ簾の子に敷いて、海藻を山積みした上から海水をそそぎ、その滴下した濃い塩水を鉄釜で煮つめて塩をつくる行事である。

『塩釜由来記』によれば「奥津彦の老翁・老女は七つの竈を造り,荒塩の老翁、多礼塩の老女は灰塩を七つの壺に入れ、佐多彦、多美彦、藻彦、多利水彦、小塩彦、八塩彦の七神が七壺の多利水を塩桶で汲みいれ十四神の老翁・老女は熾に火を焚く」と記されており、藻塩焼の製塩法は、藻を刈り、乾燥させて灰塩をつくり、海水に溶かした濃縮塩水を煮つめたことを物語っている。

弥生時代の後期になると、塩の結晶を採取する土釜もサイズや使用法が変り、瀬戸内海沿岸では師楽式土器が製塩に使われ、海岸近くに石で囲んだ炉の跡が発掘されている。大量な海水を焚くのに大型の土鍋を竈(かまど)で焚く方法に発展していった。濃縮塩水を作る方法が海藻から砂に替わると、竹籠を芯に貝灰を混ぜた粘土で作られた「貝釜」が登場、江戸から明治にかけて「石釜」へと発展していった。

 

5.コラム 現代に蘇った藻塩

近年、考古学で藻塩焼を実証しようと、海岸の古代遺跡で藻塩再現の実験が行われきた。干した海藻に海水をかけて濃縮塩水をつくり、煮つめる方法では、褐色のわずかな量の塩しか採れず、昆布の強烈な臭いの塩になってしまうといった具合で藻塩焼の再現が上手くできないでいたが、この謎に包まれた藻塩焼を現代に蘇らせた人がいる。

昭和57年(1982)、広島県蒲刈島の住職の松浦宣秀氏(故人)が沖浦海岸で古代遺跡の発掘調査において、黒い層をなした土器製塩の跡を発見したのをきっかけに、島の住民が藻塩づくりの実験を手伝う「藻塩の会」が発足、10年あまりの実験を繰り返し、ついに乾燥した「玉藻」とよばれるホンダワラを焼いた灰塩を海水で濾して土器で煮詰める藻塩の再現に成功した。

その藻塩づくりの工程は、天日乾燥したホンダワラを繰り返し濃縮塩水に浸し、天日で干した藻を焼いて、その灰を先の濃縮された塩水に溶かすと黒い液になり、それを布袋で漉して灰を取り除いて一昼夜おくと、薄い黄色の液ができあがり、それを平釜で煮つめると薄茶色の藻塩ができることを実証した。

はじめて焚きあがった藻塩の味の感想は、「灰くさい塩であるが苦味がなく、だし昆布で煮だしたようなうま味のある塩ができた。ホンダワラは乾燥が早いので塩づくりに最適である」と語っている。

平成8年(1996)に同島で開催された「古代の塩づくりシンポジュウム」において、藻塩の土器製塩の実験結果を発表、古代の藻塩焼を現代に蘇らせた試みは、藻塩焼きの実態を解明するのに大きな手がかりとなり、考古学会からも認められ大きな注目を集めた。塩の自由化が始まると、現代に蘇った藻塩は「海人の藻塩」の商品名で市場に出た。天ぷらのつけ塩、焼鳥などの振り塩につかわれ、うま味を引き立てる塩として日本料理店で使われている。

何千年にわたって、縄文時代の貝を煮だした濃縮塩水(鹹水)や、海藻のうま味成分が含まれている塩を摂取してきたことが、日本人のうま味に敏感な味覚を育てた最大の要因だと考えられる。

 

6.和食のおもてなしの心

わが国では、食事をする際に「いただきます」の言葉から始まる。食事をつくる人、お米を育てた人たちへの感謝の気持ちを表した言葉である。

昔の子供は親から、米の漢字は、お百姓さんが春に稲を植えて秋に収穫するまでに八十八もの手間をかけて作られたこと表している。だから米を粗末にしてはいけないと言われて育った。稲作は天候次第で豊作の年、凶作の年が決まる。春に田を耕し、秋に収穫を得る。おのずと自然への畏敬の念が強く、「自然に生かされている」という感性を身につけた米食民族に育ってきた。

自然を支配している風の神、水の神、火の神々に五穀豊穣を祈る際に、神社に祀られた守り神に食物を捧げる「神饌」とよばれる儀式が行われる。

秋に稲の収穫を終えると人びとは、無事に米の収穫ができたことを神に感謝するために、神社の守り神を迎える祭りの準備をし、ご馳走をつくって神に最高のもてなしをしようと努めた。神への感謝と願いの神事を終えると、皆で「直会(なおらい)」とよばれる、神に捧げた供物を食する。神との一体感を持ち、神が人びとの加護と恩恵を与えてくれると信じていた。神饌の供物には主食の米と、その土地の人々が恩恵を享受した旬の海の幸、山の幸が捧げて神をもてなしした。

奈良時代には貴族社会で神饌料理の流れをくんだ、客をもてなす接待の料理が成立していた。平安中期になると、唐の文化の影響を受け、貴族が催した「大饗料理」が定められた。これは貴族階級が天皇の親族を招いて開くもてなしの宴会で、身分によって上は20品から下は8品と料理の数が異なる料理形式である。

その後、鎌倉時代に禅宗寺院において中国で学んだ禅僧たちが帰国して広めた精進料理がうまれ、肉食の味覚を豆腐や野菜料理などでつくる高度な料理法が発達した。室町時代になると味噌醤油、鰹だしをつかった今日の和食の原型である「本膳料理」が出来上がる。

戦国時代、大名の間で茶の湯が流行し、茶会の後に「懐石料理」のもてなしの料理様式が誕生する。わび茶の精神を体現しようとした千利休は、宴会料理から酒を排し、ご飯に汁物、漬物、それに野菜の煮つけ、おしたし、魚料理などの三つの菜を基本のかたちにした一汁三菜の質素な懐石料理の様式を完成。ひととひとの一期一会を重視し、いかに人をもてなすかを気配りし、庭や茶室などの空間から茶器や床の掛け軸にいたるまで、最高の演出がなされ、食事を美学にまで高めた。

和食の系譜は、神饌料理を源流とし、本膳料理から懐石料理にいたるまで、一貫してもてなしの精神が流れている。日本の食卓で「いただきます」に始まり「ごちそうさま」で終わる言葉に、感謝とおもてなしのこころが込められている。

まとめ

フランス料理、イタリア料理、中国料理など、料理文化のある国々には、それぞれの料理に相応しい塩が存在している。塩は基本調味料で、その国の食文化と深く関わっている。新たな料理文化に相応しい使い勝手のよい塩が求められる。料理文化の発達に合わせて、車の両輪のように洗練されていく塩の系譜がある。

平安時代の大響料理は、各人の好みの味付けをするのに手塩皿がもちいられ、それまでの黒っぽい藻塩から、白くサラサラした塩がもとめられた。そのため、色のつく鉄釜から白い塩が採れる貝釜が開発された。和食の原型が完成した懐石料理が流行した時代には、松葉炊きの石釜が開発され、洗練した塩がつくられるようになつた。

わが国の塩づくりは、たえず塩職人の知恵と技術によって、その時代の料理に相応しい洗練した塩づくりの歴史がある。(詳しくは塩の系譜へ)

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増田 幸右 について

1964-1968 武蔵野美術大学 グラフィックデザイン科卒業 1968-1994 広告代理店電通入社 クリエーティブ・ディレクター 2002-2004 立教大学大学院 修士課程 2003-2008 (株)GN21 経営コンサルタント 2007-2010 浦安図書館ボランティアBCU会員 2010-2014 企業ブランドアドバイザー 2006-2014 日本海水学会員
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