Ⅱ.海の塩・陸の塩

 1.太陽と風がつくる海塩

古代人は海岸の岩の窪みに取り残され海水が太陽と風で蒸発してできた白い粒の塩を発見し、塩の結晶が蒸発によってできることを自然から学んだ。

天日塩は、海水を塩田に引き込み、太陽熱と風の力によって水分を蒸発させて塩の結晶を採取する製塩法である。天日塩は、雨量が少なく気温が高い乾燥した気候条件に恵まれ、かつ平坦な粘土質の海岸などの土地などの条件が求められる。

ヨーロッパの天日塩は、この二つの天日塩づくりの環境に恵まれた、地中海沿岸のイタリア、南フランス、スペイン、北アフリカの国々に発達した。

もっとも原初的な天日塩が採取できる、スペインのカジスでは、水深の浅い湾を閉め切っておくと、太陽熱によって自然蒸発して自然に塩が結晶する。天日塩が採れる干潟をソルトパン(塩皿/平鍋)とよばれる由縁である。ローマ時代から天日製塩が行われているイタリアのシチリア島のトラパーニにでは、今も伝統的な天日塩づくりが伝承されている。入り江から海水を給水路で塩田の貯水池に引き込み、いくつもの蒸発池を経て浅い結晶池に移動し、最後に結晶化した天日塩を採取している。

かき集められた粗塩は野積みして、しばらく寝かせ、余分なにがりを取る。イタリアでは古くから、「塩の中の最も乾いた塩は、塩辛く、どんな塩も雨にあたると味がよくなる」といわれ、塩味のこだわりがある。

古代の地中海貿易では、塩は、調味料、魚の塩漬けの貴重な交易品であった。古代ギリシャ、ベネチア、イタリアシチリア島は塩の交易で栄えた歴史がある。

アジアでは、中国をはじめインドネシア、ベトナム等で天日塩がつくられているが、気候が多雨湿潤のため、さまざまな工夫をした天日塩の製法がうまれた。

中国福建省には、スペインの宣教師が伝えられたといわれる、「晒法」とよばれる天日塩がある。瓦や陶磁器の破片で作られた浅い蒸発池で、太陽熱と陶磁器の遠赤外線の熱による天日塩を採取する方法が開発された。また、木の平らな箱に海水を入れて天日干し、雨が降ると木箱を重ねて防ぐという天日塩を採取する便利な方法もあみだされ、福建人を通してクリスマス島など南太平洋の島々に箱の天日塩づくりが普及していった。

20世紀初頭から南仏の地中海沿岸の天日塩は、工業化が進展し、小規模な天日塩田は衰退の一途をたどり、今日では、小規模な天日塩田は淘汰され、レーザー光線で塩田を管理する大規模な塩田に変わり、塩の寡占化が進んでいる。

世界最大規模の天日塩田はメキシコのゲレロネグロにあり、東京都23区ほどの広さがある。またオーストラリアのポートヘッドランなどの大規模な天日塩田では、半年から二年もの時間をかけて塩の結晶がつくられ、主にわが国が輸入している塩の四割がこの二つの国から輸入された天日塩である。(詳細は第四章今の塩)

 コラム 自然と共生するゲランドの塩

気候的に天日塩の北限は、西大西洋のフランスのブルターニュ半島の南岸のゲランドである。紀元前1世紀、ローマ軍に追われたケルト系ブルトン人が海峡を渡ってイングランドから移民して、この地に天日塩田をつくったと伝えられている。

現在も先祖代々受け継いできた伝統的な手法で天日塩がつくられている。文字を持たなかったケルト人は、渦巻き模様に天日塩の製塩法を遺したといわれる。

ゲランドの塩は、9世紀ブルボン王朝から現在にいたるまで、塩職人「パリュディエ」によって伝統的手法が継承されている。

毎年五月から十月の収穫期に海水を塩田に引き込み、蒸発池から結晶池に順次、海水を蒸発させ、最後にオイエとよばれる採塩池で塩の結晶を収穫する。

最初に水面に浮かんできた塩の結晶を、まるで花びらを摘むように笊で丁寧に収穫する。初摘の塩は「フルール・ド・セル」(塩の花)と呼ばれ、淡いすみれの香りがする。塩田の底に沈んだ「グロ・セル」と呼ばれる粗塩は、塩職人によりラスというT字型の木製の道具で採取される。料理一般に広く使われている灰色の塩である。

ゲランドの塩は、穏やかな陽光と風でゆっくりとした速度で結晶が育つので、柔らかで水に溶解しやすい塩で、フランスのシェフたちの厚い支持を受け、食文化の伝承遺産となっている。

今日、ゲランドの塩が世界の塩のブランドとなったのは、観光開発の波がゲランドの自然を破壊していくことに心を痛めた若い自然活動家たちが、ここに塩職人の学校をつくり、塩田を守る運動に参加し「ゲランド塩生産者集団」を結成、生態系の自然保護を求める運動を起こしたのだ。自然と共生する生態系を重視する塩づくりが高く評価されているからである。

フランス政府は、1992年にゲランドの塩田を特別自然保護地区に指定して、伝統的な製塩技術を文化遺産として保護し、次代に継承することを決めた。

今、欧米の食塩の主流は、ナチュラル・シーソルト(自然海塩)である。自然から収穫するハーベストと位置づけられ、オーガニックとして認識されている。

 2.釜で焚いてつくる海塩

海の塩には、太陽熱と風で自然にできる天日塩と、海水を釜で煮つめて水分を蒸発して塩の結晶をつくる、「煎ごう塩」とよばれる海水塩がある。釜で焚いてつくる海塩には、濃縮塩水をつくる「採かん」と釜で煮詰める「煎ごう」のふたつの技術開発の塩の歴史がある。

天日塩田のかたちや製塩プロセスは、気候によって大きく左右される。蒸発の盛んな高温で乾燥したところでは、浅瀬の貯水池でよいが、北上につれて短晴多雨のために天日塩づくりが困難になる。そこで、濃い海水をつくる「採かん」と加熱して煮つめる「煎ごう」のふたつの工程を経て塩をつくる製塩法がうまれた。

九世紀頃、短晴多雨のオランダ、イギリス東部では、海水の浸みたピート(泥炭)を燃やした灰に海水を注いで濃い塩水を溶出し、泥炭を燃料に陶器の釜で炊いて塩を採取していた塩づくりの歴史がある。

また北欧の寒冷地では、海水が凍結する際に水分のみが氷になり、その底の濃縮された塩水を採取して釜で煮詰めて塩を採る「煎ごう塩」がつくられていた。

中国、韓国、日本など、多雨多湿なアジア・モンスーン地帯では、いったん海水を塩田の砂に沁みこませ、天日で蒸発させて濃縮塩水をつくり、それを釜で加熱して塩の結晶を採る製塩法が主流である。製塩の半分は天日蒸発、後の半分は加熱蒸発の製塩法は、燃料の省力化の創意工夫の結果である。

海水に含まれる約3.5%の塩分量の内、78%が塩(塩化ナトリウム)で、海水の10分の1近くまで濃縮してから、はじめて塩の結晶化が始まる。そのため塩が結晶するまでには膨大な薪の量と時間を必要とするからである。

わが国では、古墳時代(400年)のころから、海藻についた塩粒を海水で漉して濃縮塩水をつくる藻塩法から、塩のついた浜の砂を海水で溶解して濃縮塩水を採る方法へと転換していった。太陽熱と風の力を利用して塩の結晶のついた塩砂から濃縮塩水をつくるのに、塩田が発達した。

ひとつは、海面より少し高いところに粘土を突き固めて水が浸みこまない地盤をつくり、その上に砂を敷いた塩田に海水を運んで散布し、太陽熱と風で水分が蒸発した塩砂を集めて海水を注いで濃縮塩水をつくる方法で「揚浜式塩田」とよばれる。

もうひとつは、遠浅の干潟を利用して堤防で仕切って塩田をつくる「入浜式塩田」である。潮の干満差を利用して塩田に海水を溜め、塩田の地盤に浸透した海水が毛細管現象で上昇、天日によって砂粒の表面に付着した塩の結晶を集めて「沼井」とよばれる浸出装置で濃縮塩水を採る方法である。

江戸時代には、瀬戸内海の赤穂で大規模な入浜式塩田が開発され、石釜との組み合わせで塩の大量生産が実現、瀬戸内海沿岸の十州塩田に製塩が集中し、全国の塩の九割を生産するまでに至った。ここに日本独自の製塩法が完成、江戸時代に完成した入浜式塩田は、第2次世界大戦後まで250年間も続いていた。

昭和27年(1952)から、従来の砂を媒体とした塩田から一変して、砂を動かさないで、ゆるやかな勾配の地盤の上に砂を撒いて、海水を流し、太陽熱を利用して水分を蒸発する「流下式塩田」に転換をした。

流下式塩田には、竹の枝を組んだ立体設備の枝条架が併設され、汲み上げた海水を上から散布すると、風で水分を飛ばし、さらに濃縮される。枝条架は温度の低い冬季に威力を発揮し、入浜式塩田と較べて、労力は10分の一になり、生産量は3倍近くに大幅に増加。年間を通じて塩の安定した生産ができるようになった。

流下式塩田の採かんと真空式蒸発釜を組み合わせた、塩の大量生産方式によってわが国の製塩業は、農業的な重労働から解放され、人手のからない工業的な製塩に大な変貌を遂げたのである。(日本の塩づくりは第四章参照)

 3.地下に眠る岩塩

岩塩は、太古に海だったところが地殻変動によって海が隆起して、海水が陸に閉じ込められ、何億万年という悠久の歳月を経て水分が蒸発してできた地下に眠る塩である。岩塩の生成、はじめに濃い塩分を含んだ塩の砂漠や塩湖になり、その上に土砂が堆積してできたと考えられている。

数億年の間に、海水中に溶けていた各種の塩類である硫酸カルシウム、塩化ナトリウム、硫酸マグネシウム、塩化カリウムなどは、それぞれ結晶化する溶解度が違うので、溶解度の低いものから順次、分離して堆積し、塩類の層が積み重なった形で地下に存在する。岩塩は巨大な天日塩で塩の化石ともいえる。

世界の塩の年間産出量は、世界の塩の生産量は約二億三千万トンといわれ、その三分の二が岩塩で占められている。岩塩は5億年から200万年前かけて形成されたといわれ、その埋蔵量は、ドイツだけでも200兆トンあると推定され、想像を絶する無尽蔵の岩塩が地下に眠っていることになる。

岩塩の採鉱法は、地中の岩塩層にまで鉱道を掘り、岩塩を機械で掘削する「乾式採取法」と、地上から岩塩層までボーリングし、配管を通して水を注入、溶解した濃い塩水を汲み上げる「溶解式採鉱法」のふたつの採掘法がある。

岩塩は、塩化ナトリウムの層から掘り出したもので、純度が高く、塩の結晶の中に鉱物や泥などの異物が混ざっており、透明な白い岩塩はまれである。ほとんどはピンクや灰色、黒など着色しており、食用の塩として使うには、水で溶解して釜で煮つめて再結晶した塩が広くつかわれている。ドイツの「アルペンザルツ」やオーストリアの岩塩は、溶解・再結晶した食塩で、コモンソルト(食用標準塩)とよばれる。

原塩のまま食用にしている代表的な岩塩は、米国ユタ州のレッドモンドで産出する「リアルソルト」の商品名で売られている。約1億5千年前、恐竜が生息していたジュラ紀のユタ州は海底であったが、陸地の隆起によって海水が地下に閉じ込められて結晶化。結晶内に海水中のミネラルが含まれているといわれ、全米約35000人のシェフたちが所属するATIのコンテストで金賞を獲得している。マンガン、鉄分の含有量が多く、ほのかな甘みのある塩である。ドイツ、イタリア、チリの岩塩のなかには、透明な結晶が産出され、そのまま細かく砕いて商品化される

 溶解式採鉱法の始まりは、古代中国の四川で開発された塩の井戸「自流井」である。その地下を掘削するボーリング技術が19世紀に入ってヨーロッパに伝わり、飛躍的に塩の生産量が増えて、工業用の原料塩として近代工業化の発展に寄与した。

 コラム 世界遺産ヴィエリチカ塩

ポーランドのクラクフの郊外の町ヴィエリチカの地下に、1000年を超す歴史を誇る世界屈指の岩塩の坑道が広がっている。入り口で「神の恵みあれ」の挨拶に迎えられて、8人乗りの四階建てのエレベーターで、深さは300mにいたる地下に降りると、ここを訪れた天文学者コペルニクスを記念したコペルニクス生誕500年記念の彫像、岩塩坑のガス発生を防ぐために松明で天井を焼く鉱夫、地下の塩湖から海水を汲む人と道具、そして100頭の馬が岩塩を運搬したという採掘の様子が展示されている。 

地下100mの広大な塩の空間には、イエス・キリストの生涯が描かれたレリーフが施され、岩塩の結晶でつくられたシャンデリアが輝き、天井、壁、祭壇の全てが塩できた聖キンガ礼拝堂がある。

ヴィエリチカ塩坑の創業は1044年と伝えられ、井戸を掘って岩塩層に溶けた塩水を汲み上げ、釜焚きして塩を採っていたが、13世紀ごろから、縦穴を掘って岩塩の採掘が始まると大量の岩塩が産出し、ヴィエリチカ製塩業が栄えた。その塩の交易によってピャスト王朝にもたらす利益は莫大なものであったといわれる。

ヴィエリチカの塩坑は、コペルニクスやヨハネ・パウロ2世も学んだように、優れた学者や鉱山技師が集り、錬金術、天文学、化学に関する幅広い学究の場となり、ヨーロッパ文明の発信地となったのである。

4.陸に閉ざされた塩湖

塩湖は、陸に封鎖された海である。太古の海が地殻の変動で陸に閉ざされて水分が蒸発してできたもので、河川が出口を失ってできた塩湖や、塩土の地が雨季に塩湖となり、乾季にできる湖塩が採取される。

乾燥した気候の陸地で蒸発量が河川の流入量を上まわる、または、海面より低い陸地の湖水の塩分濃度は上昇する。世界一低いところにある塩湖は、ヨルダンとイスラエルの国境線に位置する「死海」である。地中海より水面下が394メートルも低く、塩分濃度は31.5%(海水の塩分3.5%)とあまりの塩分の濃さに、古代ギリシャ人はここには動物も植物も生存できないため“悪魔の海”とも呼んだ。

死海に並んで有名な塩湖は、米国ユタ州のグレート・ソルトレイクである。1847年モルモン教徒が移住、初めてこの塩湖から天日製塩法によって採塩を始め、鉄道も敷かれた塩の都市が誕生した。塩湖は、マグネシウム、カリウムなどが相対的に多く、複雑な組成を示す湖塩が多い。死海はマグネシウムが多く含まれており、現在、臭素や薬品などの化学工場が勃興、グレート・ソルトレイクでは、塩化カリを産出している。

北アフリカには、エジプトのミイラにつかわれたナトロンコ湖の塩、天然ソーダの採取が行われているアメリカのソルトン湖など、塩類の組成が異なった多彩な個性を持った湖塩が採取されている。食用には、南米アンデスのウユニ湖、アフリカのチャド湖、オーストラリアの湖塩がよく知られている。

アジアにおける湖塩の一大塩地は、モンゴルである。ヒマラヤ山系の伏流水が大平原の岩塩の地層に湧き出し、塩湖が形成されたチベット高原は、太古の大海原である。陸に閉じ込められ、強い太陽の熱と風で水分が蒸発して消滅、地表に「塩砂漠」が出現した。4000m近い高さの山々からの雪解け水が盆地に流れ込むと、海につながる出口を失った河川の末端は、塩分を含んだ塩土となり、雨が降れば塩池になる。モンゴルの塩のなかには、一億数千年かけて生成された水晶のよう透明な湖塩が産出する。わが国の正倉院の宝物に、中国西域のシルクロードの砂漠に産出する湖塩が収められている。光明塩とよばれる白く透明な湖塩は、朝廷の儀式や薬用に使われ、朝廷に献納される理想の塩とされた。“雪の如く白い粒の塩”こそ、わが国の塩職人が追い求め続けた塩であった。

コラム オーガニックなデボラ湖塩

インド洋に面した西オーストラリアのパースから約450kmに位置するデボラ湖塩は、太古よりインド洋から潮の泡沫が飛来し、五百万年もの悠久の時間をかけて堆積されてできた塩湖である。

150万年前の地殻変動で河川が出口を失い、低地に取り残された湖で、雨期になると堆積した塩分が溶け、夏の乾期には40度を超す夏の強い日射しと風で水分が蒸発し、塩湖に豹変。強い太陽にキラキラと輝く、白銀一色の塩の平原が現れる。

縦が20キロ、横10キロの巨大な塩湖、”幻の塩湖”といわれるデボラ湖は、毎年、夏の乾期になると2,3週間だけキャンプを張り、大自然が創りあげた塩の結晶を削り取るようにして収穫される。そして作業が終わると人は去っていく。「デボラ湖は、神様が全ての塩づくりの仕事をして下さる。人は必要な量だけの天の恵を収穫できる”神様が創った塩”」と語りつがれている。

デボラ湖塩は、水深が30センチと浅いため、育晶の時間が短いので、海水ミネラルの母液に包まれた小粒の塩の結晶になり、結晶中にカルシウム、マグネシウム、カリウムなどの微量ミネラルを十分溶け込んでから収穫するので、ミネラルバランスの良い、マイルドな塩味がする、“バージンソルト”ともよばれる美味しい塩が採れる。

デボラ湖の周辺は、いまだに未開の土地で、湖の周囲50キロ四方は、野生の動物が生息するだけで人家や牧場もない、自然環境の保全地区になっている。

環境汚染のないデボラ湖塩は、[人的、化学的に手を加えられていない天然素材による自然収穫物]という農業作物の観点から、BFA*よりオーガニック塩の認定を取得し、ここで収穫された湖塩は、20キロ離れたところにある単線の大陸横断「キイナナ鉄道」で週2回、パース近郊のフリーマントルの工場に運ばれ、そこで洗浄し異物を除去、滅菌乾燥してパッキングされ出荷される。

フリーマントルは、パースから河を下り、スワン湖を経て海に出た港町で、英国風の家が軒を連ねた表通りでは、紫の花が咲き乱れるジャガランテーの樹の下で、人々が午後の紅茶を楽しんでおり、インド洋の涼しい潮風を浴びると病気にならないといわれ、地元の人たちは、この潮風を“フリーマントルのお医者さん”と呼んでいる。 *BiologicalFarmersofAssociationの略

5.塩土と地下かん水

陸の塩には、岩塩や湖塩の他に、地下から自然に地表に沁み出た塩泉や塩分の溶けた地下水を汲み上げる塩井、塩分を含む塩土から塩を採取するなど、いろんな方法で塩を採取しているところが、欧米を始め世界中いたるところにある。

塩土は、塩砂漠ともいわれ、地下の岩塩が溶けた塩水が毛細管現象で地表に上り、蒸発して表土に蓄積もので、水で溶かしてからろ過し、釜で焚いて塩にする。

塩を含んだ塩土や塩水の湧く場所は、いずれも岩塩層の近くにあることから、動物たちが塩を求めて集まる「塩舐め場」が岩塩発見のきっかけとなっている。はじめてアメリカ大陸に移住したヨーロッパ人は、まず塩を確保するのに、野牛のバッファローの群れの「塩なめ場」の通り道をたどって塩湖や塩泉を発見したといわれる。

塩の伝説には、ドイツの塩の街、リューネブルグの塩泉を発見した白い猪、中国四川省の塩井を発見した山羊など、しばしば野生動物が登場する。アメリカやイギリスには、ソルトリック、リック(なめる)の地名がついた町がいくつかある。

山羊が発見したという、四川の水が湧き出る井戸は「自流井」とよばれ、鉄と竹で掘削し、地下から塩水を汲み上げ、天然ガスで煮詰めてつくられるユニークな製塩法で知られている。紀元前206年の前漢王朝には、すでに600メートルの深さの井戸が掘られていたといわれ、古代中国の群雄割拠した時代、四川の塩地をめぐる争いが繰り広げられた歴史の舞台になっている。

1900年に四川を訪れた英国の技術者アップクラフトは、次のような記述を残している。「ヨットが揚子江の峡谷から出たとたん、岸に一群の藁葺きの掘立小屋が立ち並び、蒸気と煙の雲がたなびいていた。それぞれ天辺に不格好な車輪をもった井戸から竹の「塩水管」で海水を汲み上げて、煮つめ小屋に送られる」と記している。

1835年には、なんと1001.42mの深さまで堀削された記録が残っており、中国を訪れたドイツの鉱山技師たちは、先の鋭い鉄の矢尻と竹で深くボーリングする技術に驚いた。すでに紀元前に開発されたこの高度なボーリング技術は、19世紀に欧米に伝承され、岩塩を溶かして塩水を汲み上げる「溶解式採鉱法」が飛躍的に発展した。

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増田 幸右 について

1964-1968 武蔵野美術大学 グラフィックデザイン科卒業 1968-1994 広告代理店電通入社 クリエーティブ・ディレクター 2002-2004 立教大学大学院 修士課程 2003-2008 (株)GN21 経営コンサルタント 2007-2010 浦安図書館ボランティアBCU会員 2010-2014 企業ブランドアドバイザー 2006-2014 日本海水学会員
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