1.塩の源流

地球は水の惑星

地球は青く輝く惑星。1969年、アポロ11号が月面に着陸、そこから眺める地球

は、太陽の近くに輝いている宇宙の青い星であった。地球の表面の約七割が海で占められ、太陽系の惑星のなかで海水を有するのは地球だけであり、生命の誕生もこの海水から誕生した。宇宙で唯一の「水の惑星」である。

地球の誕生は、約46億年前にさかのぼる。小さな惑星が衝突を繰り返し、地球の重力は強い力で微惑星を引き寄せ、それらの惑星の衝突で地表の温度が1500度以上も上がり、地表には岩石が溶けたマグマの海が生まれた。

このマグマの海に大量の小さな惑星が衝突し、水蒸気、二酸化炭素、窒素からなる大気の層が地球を覆ったのである。なぜ地球だけが「水の惑星」になったのか。それは地球が大量の隕石の衝突したときに、隕石をつくる岩塩や鉱物の中に水が含まれており、それらが分解したときに、水として放出されたからである。

水のもとになる物質を含む隕石を炭素質隕石といい、同じ隕石の集積で出来た水星や火星にも水があってもおかしくはないが、その理由は、太陽から程よい距離に存在しているために、水の蒸発を免れたからだといわれる。

やがて37億万年前から地表が徐々に冷えてくると、大気中の大量の水蒸気が雨となって地表に降り注いだ。激しい火山活動の噴出する大気中の火山ガスには、二酸化炭素や塩酸ガスが含まれており、雨水に含まれるかたちで地上に降り注ぎ、岩石や鉱物と化学反応を起こし、それらを溶かし、河川によって海に運ばれて海を形成していく。原始の海の誕生である。

地球内部のマントルから放出されたものや、火山によって放出されたものが雨水で溶かされ、海に集められ、塩酸と鉱物の中のナトリウムが中和してできたのが「塩」である。海水の中には、地球上のすべての元素が存在し、原始の海と今の海の元素の組成は同じであるが、原始の海の塩分濃度は、今の塩分よりも濃厚であったといわれる。永い時を経て原始の海からさまざまな成分が取り除かれ、おもにナトリウムイオンと塩化物イオンを含んだ現在の“塩辛い”海水に変化した。今の海水の塩分濃度は、過去の2億年間はほぼ一定であったといわれる。

今の海に含まれている全塩分量は、約3.5%で、その78%が塩である。深さ1000mの海が完全に蒸発すると1.5m程度の塩の層ができると計算され、地球上で最大の塩資源はすべて海水から始まっている。

 2.海と陸を循環する塩

太陽の熱や風で海水が蒸発すると、雲となり雨となって陸地に降り注ぐ。雨は地上に落ちてくる過程で大気中に含まれている塩酸などさまざまな物質を取り込み、それが地表の岩石や鉱物(ミネラル)を溶かし、ふたたび河川となって海にそそがれていく。塩は悠久の時間をかけて水を媒介に溶解と結晶をくりかえしながら、海と陸を循環している存在である。

古代中国には、塩はいつか海に還り、そしてまた蒸発して雨となって陸に戻る。塩は自然の輪廻転生の中で生きつづけている存在だという塩の発想がある。

3000年前、黄河中流域に古代王朝を建てた周の武王は、黄土の平原をゆっくりと地滑りしたかのように滔々と流れる黄河を眺め、塩の成り立ちを次のように直感した。「私はこう思う。天に五気があって、これから五味ができる。五気の水が土地を潤して塩気ができる。水が大地を流れていくあいだに自然と塩が「化生」するのだ」武王は殷の賢者箕子を訪ね、はじめてその理を知ったという。(『尚書』洪範編)

チベット高原を源流とする黄河は、全長4500キロにわたり大陸を横断し、渤海湾に注いでいる。黄河の中流域の運城は、何万年にわたって黄河が運ぶ塩分が堆積された豊富な塩土の地で、雨で広大な塩湖が出現。夏の太陽の熱と風で湖水が蒸発し塩が採取される。陜西に勃興した周民族は、この解州塩池を支配して塩交易で栄えた王朝である。周が異民族に征服されると、解州塩池を巡って、斉・呉・楚・越と晋の国が争い合う戦国時代(前403~220)が幕開けした。

この塩地を巡る戦いに終止符を打ったのは、秦の始皇帝である。解州塩池を占領していた魏の国を滅ぼして塩地を収奪、都を解池の近くの洛陽に移し、六国を併合して天下統一の基盤を築いたのである。

このような海水が蒸発して雨となって海と陸の塩の循環するほかに、風による塩の循環もある。大海原の海水は、表面が波立ち、風に吹かれて小さな水滴となって蒸発し、海塩粒子となって大気中に飛散し漂う。何百万年というサイクルを経て塩分が陸地に蓄積して、塩湖を創るのだ。

この代表的な塩湖がオーストラリアのデボラ湖である。太古よりインド洋から潮の泡沫が飛来し、五百万年もの悠久の時間をかけて堆積されてできた塩湖で、150万年前の地殻変動で河川が出口を失い、低地に取り残された湖は、雨期になると堆積した塩分が溶け、夏の乾期には40度を超す強い日射しと風で水分が蒸発し、塩の平原に豹変する。塩は風雨によって地球上をダイナミックに移動しているのである。

 3.四大文明発祥と塩

塩の歴史は人類の誕生と同時に始まっている。塩はひとが生理的に求める、生命を維持するのに不可欠な物質だからである。太古の石器時代の遺跡から、たくさんの動物の割られた骨が発見されたことから、狩猟時代の原始人は、捕獲した動物の骨髄から塩分を補っていたことが推測される。

自然採取と狩猟生活をしていた石器時代の新人類のホモ・サピエンスは、氷河期が終わる一万年前のころから、塩を求めて原野を移動しているうちに、塩の採れる湖塩や塩泉を発見し、塩が容易に採取できるまわりにひとの集落が形成された。

古代文明は、大河の河口の流域に発祥している。世界の四大文明の発祥地、エジプトのナイル河、メソポタニアのチグリス・ユーフラティス河、インドのインダス河、黄河など、いずれも大きな河川の河口に都市が発達した。

河川によって膨大な量の土砂が河口に堆積されてデルタを形成、土砂の堆積物には、栄養豊富な有機物と鉱物(ミネラル)が含まれ、穀物の栽培に適した肥沃な土地に恵まれ、デルタの浅瀬では、小魚、貝類、海藻などの採取ができる環境にあり、狩猟と自然採取の生活から、安定した食物が収穫できる生活に変化した。

しかし、いずれも高温の乾燥地帯で、穀物の栽培に必要な雨の量に恵まれていないのに、なぜ古代文明が栄えたのか。そこに共通しているのは、デルタの近くに天然の塩を自然採取できる干潟や塩湖、塩泉の存在していることである。

広大なエジプトのナイル河、インドのガンジス河のデルタ地帯では、灼熱の太陽によって自然結晶した海塩が採れ、メソポタニアの湿地帯には塩を含んだ沼沢地が散在している。また中国内陸部の黄河流域は、黄土の洪積による肥沃な土地と塩分

を濃厚に含んだ大塩湖があり、中国古代の王朝は、塩の産出する近くに置かれていた。小麦や米の栽培などの季節的な自然環境で生育する作物は、種まきから収穫まで集落全員の共同作業が必要になる。この集団活動が基本になって、規律や生活慣習がうまれ、文明発祥の初期の基盤ができたと考えられている。

そして塩は貴重な交易品として貨幣に替わる価値をもち、「白い黄金」と呼ばれた最古の商品に発展していった。塩の交易が大きな富をもたらしたことが、古代文明が栄えた大きな要因である。

古代エジプトは、塩漬魚の交易で栄え、フェニキア人はシチリア島を始め地中海沿岸の各地に塩田を開発して富を築いた塩の歴史がある。重くて嵩張る塩を運ぶのに便利な輸送手段である舟運を利用して、塩は河川を遡って陸地の奥に運ばれ、海に向かった船は、遠い他国の港に運ばれていく。海と陸を結んだ「塩の道」は政治・経済・文化の道となって、今に生きている。

 4.塩づくりの始まりは灰塩

私たちが「塩」とよんでいるのは、海水の水分が蒸発してできる白い結晶である。

地球上の海と陸には、天日塩、岩塩、湖塩、塩泉、塩土のかたちで無尽蔵に塩の資源が存在。塩の生成はすべて海水に由来している。

ひとが塩をつくり始めたのは、海辺の岩に溜った海水が蒸発してできた塩や湖塩のふちにできた塩などから塩づくりの知恵がうまれた。現代のニューギニアの原住民モニ族は塩水の池に草を浸し、塩分を含ませた草を焼いて黒い灰塩をつくる製塩が行われており、塩づくりの始まりが灰塩だという説の原点となっている。

世界の塩の歴史で最も原始的な塩づくりに、燃える木に塩水を注いでつくる「灰塩」が登場する。古代ギリシャでは、海浜の葦の灰に海水を混ぜた水塩を調味料にしたという記録がある。中央ヨーロッパでは、地下の岩塩層から湧出する塩水を焚火に振りかけて、灰塩をつくった。

古代中国では、海岸に流れ着く海藻を燃やして灰塩をつくったといわれ、木灰を敷きつめた上に海水をかけ、天日干しをして塩を採る方法が伝えられている。

明代の宋応星(1587-1650)が撰した「天工開物」に、次のような製塩法が記されている。「一法。潮に没しない高みでは、夜明けに雨がないのを見定め、その日のうちに稲や麦の藁灰を広く厚さ一寸ばかりまき、平らにならしておく。翌朝、露がつくころ、灰の下に塩の芽がにわかに伸びる。そこで日中晴れたときに、灰と塩を一緒に掃き集め、海水をかけて濾過して煮詰める」

わが国の最も古い塩づくりも、乾燥した海藻を焼いて灰塩の団子をつくったのが始まりだといわれるが、紀元前三世紀頃の縄文時代には土器で海水を煮詰めて塩の結晶を採取する土器製塩が主流となる。海辺で採取した貝を海水で煮て干貝をつくる際、土器の底に副産物として煮詰まったのが塩の結晶である。固めた灰塩や貴重なタンパク源の干貝は、運搬、保存に便利で、山村の食料と物々交換する貴重な交易品であった。大量に捨てられた貝殻の集積が、今日の「縄文貝塚」の遺跡である。

約2500年前、縄文の終わりころから弥生時代にかけて、大陸から稲作民族が移住、農耕生活が始まる。稲の収穫によって安定した食料が得られるようになると、集落の人口が増えるのにともなって、調味料や保存用、家畜のエサの塩の需要が急増し、生活必需品の塩づくりが本格化してくる。

海水を土器で煮つめる製塩から、干した海藻を焼いた灰を海水で漉して濃縮した塩水をつくり、それを土器で煮つめて塩の結晶を採取するという製塩法が広がっていった。「藻塩焼」と呼ばれる日本独自の製塩法である。

のちに灰から塩の付着した砂を海水で漉して濃縮し、釜で煮詰めるという、濃縮塩水をつくる「採鹹」と釜を薪で焚いて塩の結晶をつくる「煎ごう」のふたつの工程で塩をつくる、日本独自の製塩法に進化していくのである。

 

 

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増田 幸右 について

1964-1968 武蔵野美術大学 グラフィックデザイン科卒業 1968-1994 広告代理店電通入社 クリエーティブ・ディレクター 2002-2004 立教大学大学院 修士課程 2003-2008 (株)GN21 経営コンサルタント 2007-2010 浦安図書館ボランティアBCU会員 2010-2014 企業ブランドアドバイザー 2006-2014 日本海水学会員
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