1.いのちを支える塩

地球は水の惑星

地球宇宙の天体の中で青く輝いている星、地球は青い惑星。1961年、ソ連の宇宙飛行士、ガガーリンが宇宙から眺めた地球をこのような言葉で表現しています。

地球の表面の約七割が海で占められており、地球は、「水の惑星」ともよばれています。 46億年前、地球を含む太陽系の惑星が誕生、地球の重力は強い力で微惑星を引き寄せ、微惑星の衝突で地表の温度が次第に上がり、地球の岩石を溶かしてマグマの海ができ、小さな惑星の衝突が終息に向かうと大気が徐々に冷えてマグマの海もなくなり、水蒸気が雲を作り、地球上に雨を降らせます。

38億年前、300度近い膨大な量の雨が降り続け、原始の海が誕生。そして激しい火山活動を繰り返しながら大陸が出現したのです。陸地の表面が風雨にさらされ、岩石に含まれる多くの金属元素のミネラルが海に流れ込み、やがて塩分を含んだ海水となったといわれます。

太古に海洋が地殻変動によって海と分離され、何万年という悠久の時間をかけて海水が蒸発し、塩湖になり、その上に土砂が堆積して岩塩層が形成され、地下に埋もれた岩塩が地下水に溶かされ地表に湧出したのが塩泉です。

海水が岩塩になる過程を説いたのが、1931年、カール・オクセニウの唱えた有名な塩の海水起源説です。海洋の海水が砂洲を乗り越えて湾へ流れ込み、蒸発して海水の塩分濃度が高くなって炭酸カルシウムと酸化鉄が沈殿、次に塩分の濃さが増すにつれて石膏が沈殿を始め、そして塩化ナトリウム(塩)が結晶化し、砂洲は閉じて、塩化マグネシウム、塩化カリウムなどの岩塩層を形成していきます。陸に閉ざされ、出口が塞がれた海水が湖塩になり、地下に埋もれて塩の化石となったものが岩塩です。

地球上の海と陸には、岩塩、湖塩、塩泉、天日塩、塩土など、さまざまに姿かたちを変えて、塩資源は無尽蔵に存在しています。

白い結晶の「塩」は、無機質のミネラルであり、“水に溶ける鉱物”です。

海水に含まれる塩分は約3.5%で、そのうちの約80%を塩化ナトリウム(塩)が占め、残りがマグネシウム、カリウム、カルシウム、クローム、亜鉛、りん、マンガン、銅、セレンなど、多くの微量ミネラルが含まれています。

海水が蒸発し、雲となり雨となって地表のミネラルを溶かし、河川となってふたたび海にそそがれていきます。塩は水を媒介に悠久の時間をかけて溶解と結晶をくりかえしながら、海と陸を循環しています。

 

いのちを守る塩

ひとは進化していくにつれて、独立した一定の体液の濃度に保もつことで、生命を維持する恒常性(ホメオスタシス)の仕組みをもっています。

その役目を担っているのが塩です。塩の浸透圧は電解質のバランスを維持するのに貴重な働きをしています。塩は塩化ナトリウムを主体としたマグネシウム、カリウム、カルシウムなどのミネラルの集合体で、塩は身体に入るとナトリウムイオンと塩素イオンとに分れ、腸に吸収されて血液に入り、全身を巡って細胞の新陳代謝を助けます。

60兆個の細胞のひとつひとつは細胞外液という塩化ナトリウムを主成分とする体液の中に浮かんでいます。正常に細胞の機能を維持するには、細胞外液と細胞内液の浸透圧が同じであることが必須の条件です。細胞外液の浸透圧が変動すると細胞が障害されるか、収縮して生命の危機におちいります。

細胞の縮み、膨らみ過ぎで壊れないように、塩の濃度をいつも一定に保たねばなりません。塩辛いものを食べたあとで水を飲みたくなるのも、血液中の濃度を同じにする生理作用です。

細胞外液の主なミネラルは、塩化ナトリウムであり、細胞内液の主なミネラルはカリウムです。ナトリウムイオンには触覚、聴覚、味覚などの刺激を神経細胞に化学反応や電気信号によって伝達し、心臓をはじめ筋肉を動かし神経を働かす役割があります。また身体の水分量の調節を維持し、身体の酸・アルカリのバランス(pHの調節)に役立っています。炭酸ガスや有機酸、アミノ酸によって血液が酸性に傾くのを防ぐのに、常に血液のpHが7.4の弱アルカリ性に保つ必要があるからです。

カリウムは筋肉や血管の弛緩、神経の興奮の正常化、ナトリウムを尿として排出し、体液のバランスを保つのに働いています。いずれの場合も、このように細胞外液と細胞内液の浸透圧が等しく釣り合うことで、ひとは細胞外液とナトリウムと細胞内の、リウムとが絶妙な電解質バランスを保っています。

このほか、塩素イオンは胃酸の主成分となり、食べ物の消化と栄養素の吸収を助け、腸内細菌を殺す役割を果たしています。ナトリウムイオンは、小腸で栄養素の吸収をサポートし、腸の壁の老廃物の溶解と蠕動運動を高め、腸内の異常発酵を防止する効果を発揮します。

ひとの体内には、成人男性で約250グラムの塩分が含まれています。塩分は尿や汗となって失われていくため、つねに補充して血液の塩分濃度を一定に保つ必要があります。

 

内なる海に生きる

海という漢字は、ひとの母なる水を表し、海・産み・生みはともに発音が同じで共通の意味を持っています。仏教にも「すべての如来の寿命は海中にあり」という言葉があるように、地上の命あるものは、すべて海から生まれています。

遥か40億年前の最初の生物が誕生した原始の海には、生命を維持するあらゆる元素がすべて海水に溶け込んでおり、それに太陽エネルギーが加わり、有機化合物が作られると、単細胞の生物は、細胞の中にそれを取り込み、同じいのちをコピーする細胞分裂の仕組みがつくりだされます。

5億年前に脊椎動物の先祖が誕生し、4億年前に陸地にあがってきましたが、このとき生命を維持するのに必要な外部環境であった海水を身体の中に抱きかかえて上陸してきたのです。それがいのちを育む「内なる海」です

1912年、フランスの学者、ルネ・ケントンは、いのちが内なる海で維持されていることを証明しようと、海水性の無脊椎動物と淡水性の無脊髄動物を使って、観察と実験を行い、三つの法則を発見しました。

1.生命発生時の海の成分を保とうとする法則

2.生命発生時の海の温度を体温として保とうとする法則

3.生命発生時の海の濃度を保とうとする法則

この法則から生物体の血液と海水のミネラル組成が非常によく似ていることが立証し、内なる海を「生物体は内側に体液という海水をたたえ、細胞という魚群の泳いでいる養魚槽のようなものである」と表現しています。

デポン紀の原始の海の海水とひとの体液のミネラル組成はほとんど一致しています。ひとが誕生する受精・受胎・懐妊・出産の過程は、すべて子宮の中で行われますが、母親の胎内で胎児が浮かんでいる羊水には、原始の海と同じ組成のナトリウム、塩素、カリウムなどのミネラル元素を含まれています。

細胞が内なる海という体液の中に浮いている生命体は、細胞の外部環境である体液のミネラルバランスの崩れや化学物質の汚染により、病気を招く原因になると考えられます。

 

塩と草食動物

草食動物は、カリウムを含む植物を多食するため、必ずナトリウムの不足をきたし、塩分を欲しがるようになります。家畜の牛は一日に80グラム、馬は40グラムの塩を必要とし、カバは500グラムも摂取します。

野生の象や鹿、牛などの草食動物は、塩分を含んだ塩泉、沼地にある「塩なめ場」を求めて、平原に群れをなして移動していきます。未開の土地アメリカ大陸に移住した白人たちは、まず塩を確保するのに、野牛のバッファローの群れの塩なめ場の通り道をたどって塩湖や塩泉を発見したといわれます。アメリカやイギリスにはソルトリック、あるいは、単にリック(なめる)の地名がついた町がいくつかあります。

ドイツの塩の街、リューネブルグの塩泉を発見した白い猪の伝説、中国四川省では塩の「自流井」の発見に山羊が登場しています。日本では、ニホンカモシカが塩分を含んだ土をなめる習性があることがよく知られており、鹿塩温泉、鹿(か)教(け)湯(ゆ)など、塩分を含んだ温泉のでるところが塩なめ場となっています。

ライオンなどの肉食動物が塩を欲しがらないのは、獲物となる動物の肉にナトリウムが多く含まれているため、あえて塩分を摂取する必要がないからです。

塩は生物の繁殖に深く関わっており、アフリカ象の生息数とその土地の塩分濃度を調べたところ、繁殖率が高いという報告があります。

家畜の場合は、必要な塩分を充分摂らないと子を産まなくなり、順調に育ちにくいといわれています。むかしから牧畜には、ミネラルを含んだ自然海塩や岩塩を餌に混ぜて与えています。

純度の高い食塩を与えると、流産や病気の発生がふえるので、専売時代にも輸入天日塩を飼料に使っていたといわれます。アメリカでは古くから家畜用の飼料に鉄、銅、コバルト、ヨード、カルシウム、マグネシウムなど、ミネラルの入った舐め塩用の固形塩がつくられており、戦後にわが国にも広く普及しています。

民俗学者の宮本常一は『塩の道』のなかで、塩を運ぶ夜には、オオカミが来るから必ず焚火をして野宿したといわれます。また、山の中で働いている人たちは立ち木や壺の中に小便をすることを固く禁じられています。

それは、壺に小便がたまるとオオカミだけではなく、鹿が舐めに来るといわれて、そのときには必ず底の抜けた桶を使ったといわれます。トナカイが人間に飼育されるようになったのも、人間の尿に塩分が含まれているのを知っており、それを舐めるために人間に近づいて捕獲され、家畜になったといわれています。

バイソン

最近、鹿が自動車にはねられる交通事故死が増えているというニュースが報じられていましたが、山林の開発で鹿の塩舐め場を失ったため、融雪用に撒いた塩を舐めに道路に出現してくるようになったことが原因だといわれています。

私たち人間も塩を摂取しなければ生きていけない草食動物です。人間の歯が草食に適した臼歯や小さな犬歯のかたちに進化してきたのは、食物が草や木の実、穀物であったことを物語っています。ひとの塩嗜好の根底には数千年におよぶ進化の過程で、塩欠乏の苦い経験が遺伝子にインプットされているといわれています。

 

2.塩と文明の発祥

四大文明の発祥

塩の歴史は人類の誕生と同時に始まっています。塩は生命を維持するのに不可欠な生理的に求める物質だからです。

草食動物が塩なめ場を求めて原野を移動するように、私たち人間も塩を摂取しなければ生きていけない動物です。ひとの歯が草食に適した臼歯や小さな犬歯のかたちに進化したのは、食物が草や木の実、穀物であったことを物語っています

太古の石器時代の遺跡から、たくさんの動物の割られた骨が発見され、狩猟時代の原始人は、捕獲した動物の骨髄から塩分を補っていたといわれています。

石器時代の新人類のホモ・サピエンスは、自然採取と狩猟生活をしていましたが、氷河期が終わる一万年前のころから、塩を求めて原野を移動しているうちに、天日塩が採れる湖塩や塩泉を発見し、塩が容易に採取できるまわりにひとの集落が形成されてきます。ひとが生きていくには、食料の安定と水の確保が必須で、安定的に収穫できる小麦や米の栽培による農耕・牧畜生活が営まれるようになります。季節的な自然環境で生育する作物は、種まきから収穫まで集落全員の共同作業が必要になります。こうした食の集団活動が基本になって、規律や生活慣習がうまれ、文明発祥の基盤ができてきます。

紀元前二千年から三千年に古代文明が発生したエジプトのナイル河流域、メソポタニアのチグリス・ユーフラティス河流域、インドのインダス河流域、黄河流域の四大文明の発祥地は、いずれも大河の流域の周辺にあり、豊富な水と肥沃な土地に恵まれています。

しかし、いずれも高温の乾燥地帯で、穀物の栽培に適した温暖で雨の量に恵まれていないのに、なぜ古代文明が栄えたのか。共通しているのは、近くに天然の塩を自然採取できる干潟や塩湖、塩泉の存在があることです。

広大なエジプトのナイル河、インドのガンジス河のデルタ地帯では、灼熱の太陽によって自然結晶した海塩が採れ、メソポタニアの湿地帯には塩を含んだ沼沢地が散在しています。また中国内陸部の黄河流域は、黄土の洪積による肥沃な土地と塩分を濃厚に含んだ大塩湖があります。中国古代の王朝は、みな山西省運城の「解州塩池」の近くに置かれていました。

古代文明が栄えた要因は、塩が貴重な交易品として貨幣に替わる価値をもち、「白い黄金」と呼ばれた最古の商品であり、塩の交易で大きな富をもたらす源泉となっていました。さらに重くて嵩(かさ)張る塩を運ぶのに必要な輸送手段である舟運に便利な大河の流域に位置しています。

交易品の塩と塩漬魚は、河川をさかのぼって陸地の奥に運ばれ、海に向かった船は、遠い他国の港に運ばれていきます。海と陸を結ぶ「塩の道」は政治・経済・文化の道となって今に生きています。

 

聖書に描かれた死海

世界の塩の歴史は、イスラエルの「死海」(DeadSea)にはじまるといわれています。

死海はヨルダンとイスラエルの国境線に位置し、古代ギリシャ人はここには動物も植物も生存できないため“悪魔の海”とも呼んでいます。地中海より水面下が394メートルも低く、世界で最も低いところにある塩湖です。

すでに紀元前に、遊牧民の塩の供給地として死海にそびえるソドムの岩塩が採掘されていたといわれ、ミイラの防腐用にエジプトに送られていたといわれます。西暦130年頃に作られた地図に、死海を航海する二隻の船が描かれ、一隻は死海の赤い塩を積んでおり、もう一隻にはソドム山で採掘された灰色の塩を積んでいます。聖書の列王記にモアブ人が朝早く目を覚ました時、太陽は水の上に輝き、彼等は血のように赤くなった水を見て「これは血液である」と言ったといわれます。赤色は、天日で蒸発した浅い池に赤い微生物が繁殖するためで、赤いほど塩分濃度が高く、色が血液と似ていることから鮮烈な印象を与え、赤い塩水をイエス・キリストの血の象徴にしたといわれます。

仏教でも泥沼に咲く美しい蓮の花に仏の世界をみたように、赤い塩湖から白い塩の結晶が育つ神秘な世界が信仰に結びついたのでしょうか。

死海で最も知られているのはロトの妻の伝説です。邪悪な町ソドムに二人の娘と住んでいたアブラハムの甥ロトが、罪深い町が破壊されようとしたとき、二人の天使が彼の家族を逃がすために、町の城壁から脱出した際に決して後を振り向かないようにと忠告します。

しかしロトの妻が天子の言いつけを無視して燃えている町を振りかえった、その瞬間に塩の柱に変えられてしまったという伝説です。

聖書の中に、塩によって花園が砂漠に、肥沃な田畑が塩の地になる、ロトの妻が塩の像に変えられたという塩が忠節の欠如を戒める象徴的な物語が多く記されているのは、”死の海”をイメージする荒涼とした死海と呪いや懲罰が重なっていることに由来しているからではないかと思われます。

 

3.塩の象徴性

塩は人と神との契約の象徴

塩(Salt)の語源は、中世ラテン語のSal(海)に由来しています。四方を海に囲まれた

わが国でも、昔から塩と潮とは同義語になっています。

古代中国人は塩を天帝の供物としていたといわれます。中国の塩の漢字「鹽」が表している意味は、皿の上にある塩の結晶「鹵」を臣が皿に盛って御幣を立てて神に供えたかたちを表したものといわれています。

ギリシャ語では塩はHalsといい、古代ギリシャ人は太陽と同様に塩を崇拝しており、塩は神聖なるもの(divine)で、祭紀における浄めとして宗教上の儀式に使われています。家庭では食事の前に感謝を捧げる儀式として神に塩を捧げています。

「あなた方は地の塩である」といったのは、「塩の象徴学」の著作で有名なギリシャの百科事典派学者のプリニウスの著書が原典となっています。ユダヤ教の教典や旧約聖書の「塩の契約」には「イスラエルの神、主が塩の契約をもって、とこしえにイスラエルを治める王権をダビデとその子孫に授けられた」と記されています。古代ユダヤ人にとって塩は不変な存在であることから、神と人、人と人との間の永遠の契約の象徴とみなしています。

塩は水に溶けても、再び蒸発させれば白い結晶に戻り、塩の本質は永遠に変わらないからです。

旧約聖書にある塩の契約は、共に塩を摂取することにより深い信頼関係が生みだされることを意味しています。

聖書には「献げ物にはすべて塩をかけよ」(レビ記二章)とあり、ユダヤ人は安息日である金曜の夜になるとパンを塩に浸し、神との契約を守ることを誓います。古代ギリシャでは、食事の前に感謝をささげる儀式として神に塩を供える習慣がありましたが、塩壺が盗まれて食卓からなくなったとき、塩壷が倒れてこぼれると悪いことが起こる不吉な前兆だと人々は畏れ、信心深い古代ローマ人は塩がこぼれたときに「神よ、悪魔をはらいたまえ」と叫んだといわれます。

ノルウェーの古い迷信に、人はこぼれた塩を溶かすのに必要な分量の涙を流すといわれ、イギリスではこぼれた塩のひと粒ひと粒は流れる涙を表しているという古い信仰があったと伝えられています。

こうした食卓に塩をこぼすことは、なにか悪いことの起きる前兆とみなした考えを絵画に残したのが、レオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」です。

近年壁画の修復が完成、ここにはキリストを裏切ったユダの右手前に倒れた塩壷からこぼれた塩が描かれている部分が発見されました。レオナルド・ダビンチは最後の晩餐の絵の中でユダの前の倒れた塩壺を描くことで、神との契約が破棄され、来るべきキリストの受難を暗示したのではないかと思われています。

塩は信頼と友情の証

塩が永遠に腐敗しないでその品質が変わることなく、白く輝く堅い結晶であることから、紀元前600年ピタゴラスの時代には、塩は正義(justice)の表象であり、聖書では、忠節(royalty)、英知(wisdom)の象徴として使われているように、ひとの生き方を示すたとえとして高い価値をおいています。

イスラエルの死海から生まれた聖書には、塩について書かれた箇所が32ヶ所もあり、その代表的な言葉に“汝らは地の塩なり”という一節があります。この言葉は、崇高な理想に生き、周りの人々の役に立つ人物になることを示しています。

塩にたとえて自らに苦難を受け、ひとの心を救うキリスト教の本質を端的に表現されているといわれます。

聖パウロは「いつも塩で味付けした快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人ひとりにどう答えるかべきか分かるでしょう」と語り、キリスト教においては、塩は不変、永遠の象徴だけではなく、真実や智慧とも結びついた知恵の象徴でもあったのです。

古代ギリシャ、ローマ人は、友誼(FriendShip)、信頼(Trust)を示すのに塩がもちいられ、その証として同盟や友情を示すのに塩を分配したといわれています。

古代ギリシャ人は最初に自分と一緒に塩を食べない相手を信用してはならないという戒めがあり、塩を分け合って食べたあとはもはや他人ではないとされています。ポーランドにも「誰々と樽一杯の塩を食べた」といえば、長い年月にわたり食事を共にして培われた深い友情を表わす言葉として使われます。

一緒に貴重な塩を大量に食べてきたことは、人生の貴重な時間を共に費やした親密な間柄を意味しているからです。

今も昔もヨーロッパでは、親しいひとの新居に塩とパンを持参する習慣が残っていますが、パンと塩を分かち合って祝福するのは、中世に始まるユダヤ教の伝統で、塩が固い友情の象徴だからです。また、イギリスのウェールズには、葬式の棺の上にパンと塩をのせ、死者への供物を食べることで、代わりにその人の罪を引き受ける習慣があります。                    *写真 インターネット ウィキペディアフリー百科事典

 

塩は富と権威の象徴

古代ヨーロッパの富を築いた貴族階級の食卓には、白い塩を入れた銀製の塩壺が食卓の中心に置おかれ、富と権威を示す象徴となっていました。

中国の漢字の「鹽」が表している意味は、「鹵」は塩の結晶を表し、それが「皿」の上にあり、かたわらに「臣」が見張り、鹵の上には所有者を明らかにした旗を表している姿を形象した造りになっています。臣が皿に塩を盛って御幣をたて神前に供えたかたちだと解釈されています。古代中国では塩はすべて王侯の占有物で国を治める富の象徴であったことを文字で表しています。

中世のヨーロッパ貴族の晩餐会の食卓の中央には、銀製の塩入れが置かれ、ホストと主賓は塩入れの上座に並び、塩入れの下座はその他の席と決められていました。

中世ルネッサンス期のフランス王の食卓には「ネフ」とよばれる貴金属でつくられた舟形の塩入れが、いつも王の食卓に置かれていたといわれます。ネフとは舟形の容器を意味する言葉で、船は国家の象徴であると同時に、王によって守られる国の安定を示す「保護と健康のシンボル」でもあったのです。健康のシンボルともいわれている訳は、塩入れには塩だけではなく、健康のために胡椒や毒消しなどを入れてあり、王の健康を守るために食卓のそばに置かれていたともいわれています。

なかでももっとも有名なネフは、フィレンツェの彫刻家、ベンベヌート・チェリーニがフランスのフランソワ一世のためにつくった塩入れです。塩を入れる皿が海の神ネプチューンと大地の神の間におかれ、海の塩・陸の塩は、ともにその源が海と大地であることを示しています。この精巧な細工の塩入れは、つねに王か主賓の前におかれ、塩はナイフの先で塩入れからとって自分の皿に移すのが食卓のマナーであったといわれています。それ以来、灰色の塩はテーブルクロスを汚すので嫌われ、塩は”雪のごとく白い塩”が理想でした。

 

悪霊を払う塩

宗教や道徳の次に出現したのは呪術です。ユダヤ人もイスラム教徒も、塩は「凶眼の魔力」を封じ込めることから、悪霊は塩を忌み嫌うと信じられています。ヨーロッパ各地では中世まで新生児を悪霊から守るために塩で肌をこする慣わしや塩水につける習慣がありました。これは新生児の舌にひとつまみの塩を載せるキリスト教の洗礼に由来しており、オランダでは赤ん坊のゆりかごに塩を載せる習慣が今も残っています。

作家グリムのおとぎ話には、“悪魔は食物に塩をかけない”ので、魔法使いの台所や悪魔の宴には塩は登場してこないという話が載っています。

フランスには、悪魔は塩を嫌うという迷信があり、いろいろな魔法使いの撃退法が言い伝えられています。雄鶏が鳴くと魔法使いがどこかに立ち寄ることを告げていると信じられ、そのときは魔法使いが立ち寄らないように、ひとつまみの塩を火に投げ入れるか、道に十字架のかたちに塩を撒くとよいという言い伝えがあります。

今も悪魔を追い払うためにひとつまみの塩を左肩越しに投げると災害や不幸がこないという迷信が残っています。ちなみに海に囲まれた日本では、塩は海水の化身と考えられ、神への捧げものとして神棚に米と水と一緒に塩を供える風習や葬式から帰った時に「清めの塩」をまいて穢れをはらう慣習はいまもいきています。

塩に関る迷信やおまじないは、ひとがむかしから塩に抱いている畏敬の念が人間の遺伝子に刷り込まれ、慣習として伝承されたものではないかと思われます。

 

塩のことわざ

昔から塩は、生活に欠かすことができない貴重な存在であったことから、身近な塩に喩えて人の生き方や戒めを示した数多くのことわざが伝承されています。

塩の塩辛い味、傷に浸みる痛み、食物の腐敗を防ぎ、料理を美味しくちからなど、

塩の特性をひとにたとえて、生きる知恵を分かりやすい言葉で表現したものです。西欧諸国には、立派な生き方をした人を「地の塩である」と称え、英知のある人を言い表すのに「塩の豊かな人」というたとえが使われます。

古来、わが国にも、塩の“しょっぱさ”、傷に浸みる痛みにたとえて、世間の苦労を経験してひとが成長することを、「塩を踏む」といいます。またひとの情や機微のわかるひとを「塩の浸みたひと」と高く評し、人間関係で相手の気持を汲み取り、ひとから信頼される生きる道を示しています。

 

□人間性を象徴する塩のことわざ

塩の豊かな人(教養のある人を表現する西欧のことわざ)

塩が浸む(世間へ出て苦しい思いを経験し、人の情や機微のわかること)

塩を踏む(辛い経験を積んで豊かな人間性を身につける)

塩馴る(世間にもまれて世馴れてくること)

塩たらず(辛い経験もなく、能力の低いひとのたとえ)

塩めがよい(人柄に品格があり賢い人のたとえ)

塩も味噌も沢山の人(仕事が確実にできる、信頼のおける人)

一緒に塩を食ったことがある(ドイツのことわざで信頼・友情の象徴)

かち栗の塩押し(しかめ面、不器用な人の形容)

なめくじに塩(すっかり元気を失う様、苦手な人の前で縮み上がること)

甘口の塩(考えの甘い人間を甘く扱うと益々だめになる)

 

4.食文化を創る塩

米の食文化・麦の食文化

農耕は、畑の作物を栽培、収穫することで、安定した食料の供給が可能になり、

収穫する作物は、その地の気候や土壌などの自然環境にもっとも適したものがつくられるようになりました。主食の中心的な作物として米、小麦、トウモロコシなどのイネ科の植物が栽培の主流となっています。これらの作物が選ばれたのは、根菜類と比べ、生産性が高く長期の貯蔵ができる利点があるからです。

気候的な条件で地球上の作物の分布をみると、米は、おもに温暖多雨のモンスーン地帯の東アジアを中心に広がり、麦はユーラシア大陸からヨーロッパの北西部にかけて栽培されています。米の生育には、温暖で湿った地域で水田耕作に豊富な水源があることが条件となり、麦は寒冷で乾燥したところで栽培できます。

米の栽培は、8千年前に揚子江の下流域ではじまり、東南アジアのモンスーン地帯に広がったといわれます。米は脱穀してもみをとって食べる「粒食」ですが、小麦は米と違って種の皮がはがれにくいので石臼で粉にしてから食する「粉食」です。

米の粒食は、鍋で炊いたり蒸したりして、ご飯や餅にし、小麦の粉食は、水で溶いてパンや麺に加工する、それぞれ異なった食の文化圏が形成されます。

米の栽培には水田が必要で、その周りには水路や溜池が設けられ、そこには魚が生息しているので、稲作をしながら魚を獲ってタンパク源とする食生活が自然にうまれ育ってきます。わが国でも昔の水田には、田んぼの片隅に溜池が併設されて、鮒やドジョウなどの小魚を網で捕獲し、囲炉裏にさげて乾燥、燻製にして保存食としていました。中国の水田には大規模な養殖場がつくられ、淡水魚の漁業が行われていた時代があります。米と魚の料理文化が育まれた基盤になっています。

世界の四大文明の地、メソポタミアで発達した麦の食文化は、西アジアからヨーロッパに広範にわたり伝播され、農耕を営みながら牧畜を兼ね、粉食のパンに家畜の肉や乳が加わった料理文化が発達します。牛やヤギの乳からクリームやバターをつくり、発酵させてヨーグルトやチーズをつくる、麦と牧畜の組み合わせが料理文化の基礎になっています。

中国には、揚子江と黄河流域の二つの文明発祥の地があり、華南の揚子江下流には、魚介類の料理メニューが豊富な上海料理、チャーハンや粥などの米料理の多い広東料理など、米と魚の食文化があります。また華北の黄河流域では、小麦の粉でつくる麺や点心、羊、家鴨などの北京料理、四川では同じ食材を使って、麻・辣の味の料理がつくられ、中国は、米と小麦のふたつの食文化の宝庫となっています。

*稲作写真 ウィキペディアフリー百科辞典

偶然の発見・発酵

古代人は、収穫した野菜や魚肉、動物の肉が腐敗するのを防ぐのに、食物を乾燥させるか、塩に漬けることで食物を保存する方法を発見しました。

自然の発酵が進むとカビや菌などの微生物が増殖し、ビール、葡萄酒などの醸造酒は酢に変化し、パンにはカビが繁殖、食べられなくなってしまいます。

しかし、ひとが腐敗した食物を食べても腹が痛くならない、それまで味わったことのない新鮮な味覚を体験したとき、塩漬けされて匂いもかたちも変化した野菜や魚肉が、うまい味がすることに気がついたのが発酵食品の発見だといわれます。

発酵との偶然の出会いが新しい味覚の世界を広げ、豊かな食文化の歴史をつくってきました。世紀元前六千年ころ、農耕を始めた古代メソポタミアでは、シュメール人が使っていた果汁の絞り機がシリアで発見され、果汁が自然の酵母でアルコール発酵して酒になったものを飲んでいたことを物語っています。

紀元前三千年のエジプトもおなじように、パンを水に浸しておくと発酵してビールになることを発見しており、ピラミッドの壁画にその様子が

描かれています。                    ↑ビールの発酵 エジプトケンアメンの墓の壁画

一方、温暖で湿度の高い東アジアでは、穀類にカビが生えて糖化が起こり、麹による発酵を利用し、多彩な塩漬けの塩蔵食品がうみださ

れ、独自の食文化が生まれています。

 

調味料をつくる発酵食品

人類が最初の調味料として塩を使ったのは、農耕と牧畜がはじめられた8千年前、狩猟による肉を火で調理して美味しく食べる方法を身につけたといわれています。

ベルギーの原始人の洞窟から穀物の粒の痕跡と陶器の破片が発掘され、五千年前には小麦を土器で煮て、塩で調味されていたことが報告されています。

紀元前4世紀の古代インドの叙事詩「ラーマーヤナ」では、すでに調味料として塩と胡椒が使われていたことが記されています。

『塩と民族』の著者、時雨音羽によれば「古代人は食物を生のままで採って食べていたが、ふとしたことで火を知り、食物が加熱で著しく好影響することを知り、そこから

さらに塩の発見に進んだのであろう」と、調味料として塩を使うようになったのは、火の加熱で美味しい料理になることを知ったのが始まりといわれてます。

穀物、根菜などの堅い生の食物を柔らかく温めて食べる料理文化が進むにつれて、塩の味付けだけではなく、酸味や甘味をもった食材、香りをつける香辛料などが加われるようになると、味覚の世界が広がり、洗練された料理がうまれてきます。

塩のはたらきは、調味のほかに食材の腐敗を防ぎ、発酵を調整して保存するちからがあります。古代人は、収穫した野菜や魚肉、動物の肉が腐敗するのを防ぐのに、干して乾燥するか、塩に漬けて保存するという生活の知恵をもっていました。

温暖多湿なモンスーン地帯のアジアでは、湿った空気で塩が溶けやすく、塩味の保存に野菜や魚を塩漬けして塩分の塩漬けの食物が発酵して塩味の調味料ができることを偶然に発見したのです。

塩は、腐敗菌を殺し、有用な細菌や微生物の発酵を調整するちからを利用した

発酵食品は、世界の料理文化をつくる大きな原動力になっています。

古代中国の周の時代に、うさぎ、鳥、魚を壺に入れて塩づけし、それに麹を加えて発酵させた塩辛の「醤(じゃん)」がつくられ、漢代には醤の材料が魚・肉から麦や粟、豆などの穀物に広がっていきます。

紀元前11世紀の中国の古書「周礼」に、朝廷の料理には百種におよぶ醤が使われていたと記され、孔子の論語には「その醤を得ざれば食らわず」とあるように、醤は中国料理に欠かせない貴重な存在でした。

わが国には、弥生時代に稲作と一緒に伝播したといわれ、醤(ひしお)と呼び、米、麦、豆などの穀物を原料に、麹と塩で発酵した穀醤は、味噌となり、その上澄み液が醤油に発展したといわれています。茄子、青菜、蕪、大根などの野菜を塩漬けした草醤が今日の漬物のルーツになっています。

米と魚の食文化圏で味の世界を演出しているのが魚醤です。魚醤とは、塩を使って小魚やエビなどを塩漬けして発酵・熟成させたもので、魚の内臓に含まれる酵素でたんぱく質を分解し、アミノ酸発酵によって塩味のうま味を引き出した調味料です。

魚醤の発祥地は、東南アジアのメコン河流域とされ、小魚やエビを原料にしたタイのナムプラー、ベトナムのニョクマム、小エビを発酵させたインドネシアにはサンパルなどの魚醤があります。わが国でも、鰯や鰰の塩漬汁、秋田のショッツル、能登の烏賊のイシル、香川のイカナゴなどがあり、さまざまな魚醤がその地方の郷土料理を貨幣の替わりになっており、独自の料理文化を伝承しています。

 

5.古代塩文化の主役たち

塩交易の主人公フェニキア人

古代ヨーロッパでは、塩は「白い黄金」と呼ばれ、貴重な交易品の対象であった塩の歴史があります。白い黄金の由来は、古代ギリシャ人が奴隷を買う際に貨幣の替わりに塩がつかわれ、奴隷と同じ重さの塩と奴隷を交換できたといいます。

紀元前8世紀、古代地中海を中心に海上交易に活躍したのは、地中海の東沿岸シリアに定着した「海の遊牧民」とよばれたフェニキア人です。

フェニキア人は商売に優れた才能を持っていて、死海の塩の交易に始まり、塩漬魚、ワイン、オリーブまで幅広い地中海交易を行っていましたが、なかでも特産品の貝紫レバノン杉は、大きな富をもたらしていました。紫貝は高貴な人の象徴である紫色の染料につかわれ、レバノン杉はエルサレムの宮殿や造船に優れた建材として使われていました。

12世紀頃には、ティルスを本拠地に地中海沿岸からメソポタミア、アラビア半島に至る交易ネットワークを広げ、キプロス、シチリア島、カルタゴに植民市を建設し、その地に天日塩田を開発して塩の交易で都市国家の繁栄を支えていました。

紀元前9世紀になるとジブラルタル海峡をこえて、イベリア半島の錫、銀、農産物などの海洋交易を一手ににぎり、北アフリカ、西ヨーロッパ諸国に交易を広げ繁栄を極めます。北アフリカに建設された植民都市カルタゴには、ジブラルタル海峡から地中海に回遊するマグロの塩漬けをつくるのに必要な塩を生産するために、干潟をせきとめて天日塩田をつくります。有名なソルトパン(塩の鍋)とよばれる塩の蒸発池です。

カルタゴはフェニキア本土の衰退をよそに繁栄を続けていましたが、地中海の覇権をめぐってフェニキアの植民市カルタゴと共和国ローマとの間でポエニ戦争(紀元前264~146年)が繰り広げられましたが、ついにカルタゴはポエニ戦争にやぶれローマに滅ぼされてしまいます。

ローマ人のカルタゴへの敵意はすさまじく、住民のほとんどは殺すか、奴隷にし、土地は塩で埋め尽くしてカルタゴを不毛の土地にしてしいました。

古代地中海の主役であったフェニキア人の交易の主導権は、ローマ人に引き継がれ、14世紀以降、ヨーロッパにタラやニシンの塩漬魚の交易が盛んになると地中海のジェノバやヴネチアを拠点に、フランスのマルセイユ、ボルドー、遠くは北欧諸国まで運ばれ、ヨーロッパ全体が巨大な塩市場となっていきます。

舞台が地中海から海貿易にかわって大西洋の貿易が盛んになると、フェニキアの遺産であるスペインのサンフェルナンドやフランスのブルターニュ、イギリスのリバプールなどの干潟で採れるベイソルト「湾の塩」が栄えてきます。

北欧とのニシンやタラの塩漬魚の交易が盛んになると地中海から大西洋沿岸諸国に舞台が移り、オランダ、イギリスが、新たな塩の貿易国として活躍する時代が到来します。

 

塩づくりの始祖ケルト人

ウィーンから列車に乗り、延々と続く牧草地帯を3時間半ほど走ると、ザルツブルグに到着します。ザルツブルグとは「塩の城」という意味で、その町の中央をザルツァッハ川(塩の川)が流れ、東にはザルツカンマグート(塩の御料地)と呼ばれる風光明媚な湖水地帯が広がっています。ザルツブルグから鉄道で、湖岸のハルシュタット駅に到着すると、船着場から船で湖を渡ってハルシュタット岩鉱ある街にたどり着きます。

紀元前400年頃、塩を掘っていて生き埋めになったケルト人の鉱夫の塩漬けの遺体の発見に続いて、鉄器文明の遺跡がハルシュタットの湖畔で発掘されました。

ハルシュタットは、豊富に産出する岩塩とバルト海や南アルプスからくる琥珀と塩の物々交換や鉄の道具や武器の交易が盛んに行われ、ヨーロッパの鉄の文化の発祥地として繁栄し、ヨーロッパ一帯を制覇します。この岩塩がうんだ鉄器文明をハルシュタット文化といい、ヨーロッパでも最も早く文化に目覚めた土地です

ハルシュタット岩鉱は、登山ケーブルで急勾配の崖を登り、山頂の台地つくと、ケルト民族村やケルト人墓地が点在しており、山道を行くと世界最古の岩塩坑にいきつきます。レンガ造りの入口で白い作業着に着替えて、トロッコに乗って木組みの岩塩坑に入っていきます。

ハルシュタットの製塩法は、山を掘削し、岩塩層に水を注入して塩水を汲み上きしてして、それを薪で釜を焚いて塩を採取する古代の溶解採鉱法です。

3000年前の古代ハルシュタットの製塩法は、地下から岩塩を掘り出していましたが、ローマ時代以降には山頂から斜めに下へ岩塩を掘り進み、そこから岩塩層に水を注入して溶けた塩水をパイプで釜屋に送って釜焚きする溶解採鉱法にかわります。

ハルシュタット鉄器文明を築いたケルト人は、紀元前1世紀、ローマ帝国に征服され、ゲルマン民族に追われてアイルランド、フランスのブルターニュなどのヨーロッパ最西端の島々にたどりつきます。ケルト人が追われて行く先々には彼らの築いた塩産地が連なっています。なかでも、フランスのブルターニュのゲランドで、ケルト人が開拓した天日塩田が有名です。海水の取水から結晶まで幾つかの塩田を経て、天日で塩の結晶を採る製塩法は、文字を持たなかったケルト人は、天日塩田を渦巻文様に表現して遺したといれます。

11世紀、ハプスブルク家の大司教領は塩の交易がもたらす財力によってザルツァッハ川(塩の川)を見下ろす左岸の山に宮殿を造り、やがて17世紀前半のバロック期には、ローマ法王庁の大司教領として、イタリア風の壮麗なバロック様式の建築物が次々建造され、塩の富で「北のローマ」と呼ばれる都市を築いています。

 

塩の食通-古代ローマ人

古代ローマは「パンとサーカスの都」といわれ、広大な属州から集まる富がローマを潤し、ローマ市民はパンと娯楽(格闘技、闘牛、サーカス)は無料で提供されていたといわれています。ローマの歴史は権力と富を持つ貴族と持たない市民との間の権利を求める争いといわれ、ローマの貴族は平民に塩の権利を与えることで、自分たちの権利を守ろうとしました。

そのひとつが民主主義の象徴として「だれにでも塩を与えられるべきだ」というローマ人の考えがあります。市民の日常の食事であるパンと塩漬けの魚、塩漬けのオリーブが不足することがないように、無料で市民に塩がいきわたることで市民の支持を得る政治が行われ、”人民の塩”といコモンソルトの発想の原点になっています。

紀元前650年、ローマ帝国の四代目の王アンクス・マルキウス(BC642~617)は、地中海に面したティベル河口のオスティアに製塩場をつくり、ここからローマに塩を運ぶための道路「ビア・サラリア」と呼ばれ塩の道路がつくられました。

オスティアで採れた塩をローマまで運ぶ道路の警備にローマの兵士があたり、兵士たちの給料は塩で支払われていたことから「兵士の塩」がサラリーの語源となったのはよく知られています。

ローマ帝国の拡大により、戦いの兵糧として塩漬けの肉や魚、ハム、チーズなどの食品加工や牧畜の餌など、膨大な塩が必需品となってきたため、フェニキア人が築いたシチリア、カルタゴの海塩を始め、中央ヨーロッパのハライン、ハルシュタットの岩塩、死海の湖塩などを奪い、領土のあちこちに数多くの製塩所をつくっています。

このように塩はローマ帝国を拡張するのに必要な戦略的な物質として大きな価値をもっていましたが、ヨーロッパ全土に食文化を発信したグルメ帝国でもあります。

食通の起源は古代ローマ時代にさかのぼります。ローマ人の食道楽の逸話が数知れず遺されています。貴族や資産家は金にあかして食道楽に走った有名な語り草に、満腹になると奴隷にクジャクの羽でのどを刺激させて食べたものを一度吐き出し、さらに食べることを繰り返した話があります。食べることを最大の快楽としたローマ人の味覚の基本は塩味でした。多くの家庭では貝殻に塩を入れ、金持ちは銀製の塩入れを食卓においており、どんな料理にも塩を振って食べたといわれます。食欲を刺激する塩を好んだローマ人は、塩に胡椒、クロッカス、ラベンダーなどを混ぜあわせ                 ↑ガルムを製造したローマ遺跡

た塩をつかい、野菜や果物の塩漬け「サルカマ」や魚肉の塩漬け「サルサメンタ」が大好物で、ローマ人の味覚は塩味にこだわる「塩の食通」ともいえる、塩味に執着したグルメだったのです。そのローマの代表的な塩調味料が魚醤の「ガルム」で、魚の内臓や骨など魚のあらを塩に漬け込んだ後に、天日にさらして液体になるまで発酵・熟成させ、それを漉した調味料です。強烈な匂いをもった塩辛い調味料でしたが、料理の味を変えてしまうほどの独特の調味料で、ローマの富裕層は、このガルムをどんな料理にも使い、ガルムの残った固形物はアッレク呼ばれ、貧しい層が主食の粥に混ぜて味付けに使用しています。

最高級のガルムは高級な香水と同程度の価格で取引されていたといわれ、哲学者のセネカは「ガルムは悪くなった魚の高価な汁」と揶揄しています。

しかし、塩好きのローマ人がつくった究極の塩味ガルムも、七世紀ころ地中海がイスラム教徒の支配下になると、ローマの衰退とともに消えていきます。

その後ヨーロッパでは、カタクチイワシの頭と内臓を取りのぞいて塩漬けにし、オリーブ油をくわえたアンチョビが登場し、イタリア、フランス料理にソースの風味を引き立てる調味料として、ピザやパスタにつかわれ、ガルムの塩味は、新たなソースが誕生するベースになっています。

 

6.国家を支えた塩

塩の専売と塩税

洋の東西を問わず塩を支配するものが人を支配する―塩の世界史には、生命維持や調味料、食物の保存、牧畜の餌など、塩が生活必需品として非常に高い価値をもっていたため、君主や領主、寺院等の権力者たちは、塩の専売権を一手ににぎり、国民から塩税を徴収した歴史があります。

ローマでは塩は専売品で、皇帝が製塩場を所有し、財務官が価格を決め、個人に賃貸したといわれます。古代ヨーロッパのベネチア、ザルツブルグ(塩の町)などの有名な塩産地では、領主のもとで修道院が塩の管理を担い、教会は塩の交易で得た利益で文明都市を築いています。また、国家が塩を管理した中国、フランス、イタリアなど、塩の専売制や塩税により国家財政の財源にした時代を経てきています。

塩が国家を支えていた典型的な例がフランスの塩税「ガベル」と中国の「塩法」で

す。フランスでは、16世紀中ごろのアンリ二世の時代に塩の課税が始まり、1660年にルイ十四世はガベルを国家収入の主要な財源としました。1680年にコルベールは、八歳以上の住民は全員が毎週、決められた量の塩を決まった値段で購入することを義務付けたのです。ガベル(Gabelle)は物品税を示すものでしたが、しだいに人頭税の色彩をおびた塩税を指す言葉になっていきます。

この過酷な塩税の違反者は「塩の詐欺罪」として罰金を支払い、むち打ちの刑に処され、再犯した場合には焼き印を押されガレー船の漕役刑に送られるという厳しい刑罰が科せられます。

フランスの塩税は塩産地と都市の税率の不公平、徴税請負人の横暴、違反者の重い刑罰に、国民の不満が爆発、1785年のバスティーユ監獄の襲撃がフランス革命の導火線になって、ついに新政権は塩税を廃止しました。

1805年、ヨーロッパの覇者となったナポレオンは、膨大な戦費を捻出するための塩税を復活し、それ以来1946年までフランスでは塩税が続いていました。

ちなみに家畜は必要とする量の塩を与えないと子を産まないということから、近年に至ってのフランスの出生率の低下は、フランス人民に課せられた重い塩税によるものだという俗説があります。

一方、古代中国では、紀元前2000年前の夏の時代に、すでに塩を税の代わりに徴収されていたといわれ、夏、商、次いで周代には、塩は貢物として王朝の財源となっています。中国において最初に塩の専売制を考えたのは、春秋時代(前722~481)の斉の国の管仲です。斉の桓公は塩商だった管仲の「塩の専売を国家の財源とする」という建議を採用し、塩の専売制を布いたといわれます。

この結果、山東省の斉は、その豊富に産出する塩を活かし、政治的に周辺諸国へ塩の供給を統制して支配力を握ることができました。塩の専売で膨大な財政収入に、一躍富める国となり、管仲が塩政の祖と称えられた由縁です

徹底的に専売制を施行したのは、前漢の武帝(前141-183)といわれ、匈奴の北方辺境の侵入に悩んでおり、その戦費の財源を専売に求め、民に製塩の用具を与えて、塩の買い上げを行い、塩の生産から、流通、販売のすべてを官営にし、塩場には役人を置いて塩の取締りを行っています。

こうした背景には、塩の専売で塩価が高騰し、塩の密売が横行しはじめたので、歴代の政府は塩法を定めて厳しく密売を取り締まってきました。

漢の武帝は塩法を犯して闇の私塩を売る者には、左の足指を切り取る刑罰を科し、唐代では、「塩一石」と呼ばれる死刑に処せられたと伝えられています。

宋代(1022-1063)になると、民間の製塩を政府が買い上げ、塩商人に対して現金を納金させて、その額に応じた塩鈔といわれる券を給付、地方の商圏が保証され、独占的に塩の商いができるようになったことで、「塩商」とよばれる巨大な財閥が成長していきます。

中国の専売制は、常に闇取引される私塩に悩まされています。元朝末期、塩が高騰し、密売者が互いに徒党を組んで決起する反乱が続発したために、元の国を滅亡に導いたといわれ、中華人民共和国にいたる1300年間にわたり、中国の塩の専売は継続していました。                    *フランス革命絵画 Wikipedioフリー百科

 

塩をめぐる戦い

古くから中国では「塩は国之大宝」といわれ、塩は国の歳入の重要な財源であり、古代王朝の興亡は、塩地を巡る戦いの歴史が繰り返されています。

中国王朝の古都は、塩の産地である山西省運城の大塩湖「解州塩池」の近くに置かれています。最古の王朝、夏は黄河下流の山東の塩地に発祥し、陜西に勃興した周民族は、西安に都をおいて運城の解州塩池を支配し、周の商う塩交易は、山西から河南の諸省に広がり、さまざまな物資の集積地として商業が栄えました。

解州には、古くから中国有数の鉄鉱石を産出する地帯で、豊富な塩土からは火薬の原料となる硝石(硝酸カリウム)が生産され、戦いに有利な資源をめぐって争奪戦が繰り広げられた舞台です。古代中国では「一国鉄なければ兵なく、一日塩なければ民は淡食する」といわれるほど、塩と鉄はともに重要な戦略物資であったのです。

商都の周が異民族に征服されると、解州塩池の覇権を巡って、斉・呉・楚・越と晋の国が争い合う戦国時代(前403~220)が幕開けします。解地を巡る古代王朝の長い戦いに終止符を打ったのは、遊牧民の北の統一王朝「北魏」(439-589)で、都を解池の近くの洛陽に移しました。                ↑写真 運城解州塩池 国立図書館

3世紀、天下統一をめざした秦の始皇帝は、解州塩池を占領していた魏の国を攻撃、塩池を収奪し、戦費を調達するために、解州の塩と鉄に高い税金を課したといわれます。

そして秦は南下して巴蜀の国を平定し、四川の塩を獲得します。「斉は東の帝、秦は帝」と称して秦は強国の斉を牽制、こうして解州の塩と四川の塩のふたつの塩産地を獲得した秦は、六国を併合し、ここに天下統一の基盤を築きます。秦の首都とを運城解池に近い咸陽におき、集権的な官僚支配を確立し、次代の漢 (前202~200)に引き継がれていきます。

 

□塩をめぐる戦い余話

秦の国は、たえず北方民族の遊牧民の匈奴に脅かされていました。秦の始皇帝の壮大な遺産のひとつが匈奴の侵入を防ぐために築いた万里の長城です。

万里の長城を構築するときに、石垣が凍結して崩壊しないように塩が大量に使われています。中国の大地には、塩分を含んだ土塩が豊富で、塩のにがりには土を固めるはたらきがあり、数万人の工夫が木枠に土塩の混ぜた土を入れ石の槌で叩き固める工法で万里の長城が築かれています。

 

 

7.海の塩・陸の塩

塩づくりの発祥

地球上の海と陸には、岩塩、湖塩、塩泉、天日塩、塩土のかたちでほぼ無尽蔵に塩資源が存在しています。塩の生成はすべて海に由来しています。

つまり、塩とは海水の水分が蒸発してできる白い結晶です。私たちが「塩」とよんでいるのは、①太陽の熱と風で自然蒸発して出来た塩の結晶(湖塩、天日塩)、②濃い塩水を釜で炊いて加熱して結晶を採る「煎ごう塩」(海塩・岩塩)、③地中から採鉱された岩塩の三つの塩に分類されます。

世界の塩の歴史で最も原始的な塩づくりに、燃える木に塩水を注いでつくる「灰塩」が登場しています。古代ギリシャでは、海浜の葦の灰に海水を混ぜた水塩の記録があります。古代中国では、海岸に流れ着く海藻を燃やして灰塩をつくったといわれ、木灰を敷きつめた上に海水をかけ、天日干しをして塩を採る方法が伝えられています。明代の宋応星(1587-1650)が撰した「天工開物」という技術書に海水を濃縮する次のような方法が記されています。

「一法。潮に没しない高みでは、夜明けに雨がないのを見定め、その日のうちに稲や麦の藁灰を広く厚さ一寸ばかりまき、平らにならしておく。

翌朝、露けがつくころ、灰の下に塩の芽がにわかに伸びる。そこで日中晴れたときに、灰と塩を一緒に掃き集め、海水をかけて濾過して煮詰める発想は、のちに灰から砂にかわり、塩の付着した砂を海水で漉して濃縮し、釜で煮詰める「煎ごう塩」に進化していきます。

わが国の製塩の発祥は、4千年前の縄文後期頃、乾燥した海藻を焼いて灰塩の団子をつくったのが始まりだといわれています。山村で採れる食物と物々交換する際の貴重な交易品であり、固めた灰塩は運搬・保存に便利であったと思われます。飛鳥時代になると、海藻を焼いた灰を海水で漉し、煮詰める製塩法が登場し、「藻塩焼」と呼ばれる日本独自の製塩法に発展していきます。

中央ヨーロッパでは、地下の岩塩層から湧出する塩水を焚火に振りかけて、灰塩をつくった記録があります。九世紀頃から短晴多雨のオランダ、イギリス東部では、海水の浸みたピート(泥炭)を燃やした灰に海水を注いで濃い塩水を溶出し、泥炭を燃料に陶器の釜で炊いて塩を採取していた歴史があります。

それらの製塩法はローマの製塩師によって伝えられたといわれています。

また現代でも、ニューギニアの原住民モニ族は塩水の池に草を浸し、塩分を含ませた草を焼いて黒い灰塩をつくる製塩が行われており、メナカ族は青竹を釜がわりにして灰塩から抽出した濃縮塩水を煮詰めて塩を採っています。

第二次大戦のとき、ニューギニアに進駐していた日本兵の話に、この黒い灰塩で豚一頭と交換できたという体験談が残っています。           *絵図 元代熬波図/灰塩

 

太陽と風でつくる塩

平らな浅い皿に塩水を入れ、太陽熱と風にさらしておくと塩の結晶ができます。雨が少なく乾燥した気候のところでは、塩湖の端にできる塩の結晶や太陽熱で、発した海岸の窪みで塩の結晶を自然採取していました。

しかし、遊牧時代から農耕・牧畜生活が定着するようになると、人口の増加と、収穫した穀物や魚肉の保存用の塩や牧畜の餌になる塩の需要が増大し、自然採取では賄い切れなくなってきます。

塩を恒常的に確保するために、高温で乾燥したところでは、海岸の干潟をせきとめて、太陽熱と風で自然蒸発して大量に塩を採取し、内陸では塩湖から浅い池に湖水を引いて天日塩をつくるようになります。海水が自然蒸発して塩の結晶になる干潟をソルトパン(塩皿/平鍋)とよばれ、スペインのカジスでは、水深が浅く入口の狭い湾を閉め切っておくと、太陽熱によって自然蒸発して塩が結晶化します。交易品の魚の塩漬け用の塩、料理用の塩のニーズが次第に高まってくると、塩の品質を高めるために、雨量が少なく気候に恵まれた地中海のスペインやイタリアでは、人工的に天日で海水を濃縮する塩田が開発されてきます。

海水を塩田に引き込んで調整池、結晶池と順次、移動して最後に塩の結晶を採取する天日塩の製塩法です。

ケルト人がゲランドの天日塩田をつくり、スペインの宣教師が中国に天日塩を伝えられたといわれています。中国では福建人が瓦や陶磁器の破片で作られた浅い蒸発池で、太陽熱と陶磁器の遠赤外線の熱による天日塩を採取しています。

現在の世界の海塩は、ほとんどが天日塩田でつくれ、メキシコのゲレロネグロやオーストラリアのポートヘッドランなどの大規模な天日塩田でつくられています                             ↑写真 オーストラリアの天日塩田

 

釜で焚いてつくる塩

中国、韓国、日本など、多雨多湿なアジア・モンスーン地帯では、海水を濃縮し、釜で加熱蒸発して塩の結晶を採る製塩法が主流となっています。

同様に短晴多雨のため天日塩づくりの気候に恵まれない北部ヨーロッパ(イギリス、オランダ、スカンジナビア)では、ピート(泥炭)や塩砂を海水で漉して濃厚塩水をつくり、陶器や鉛の釜で焚いて塩の結晶を採っていた歴史があります。また北欧の寒冷地でも、海水が凍結する際に水分のみが氷になり、その底に濃縮された塩水を採取して釜で煮詰めて塩を採る塩づくりが行われていました。

太陽と風のちからでつくられる天日塩に較べて、加熱蒸発して塩をつくるには、膨大な燃料を必要とします。オーストラリアやドイツなど、地下の岩塩を溶解した塩水を釜で焚いて塩の結晶を採取していましたが、燃料の薪を調達するために森林の伐採が共通の悩みの種でした。

ドイツでは地下塩水を濃縮するために、木の小枝を積み重ねたやぐらを組んで、ポンプで塩水を汲み上げ、上から噴霧する枝条架式が開発され、岩塩採掘では、上の坑道から注水して、塩分濃度を高めるなど、さまざまな工夫がなされていました。

釜で焚いて塩をつくるには、いかに濃い塩水をつくるか、そしていがに燃料を節約できるか、塩づくりの歴史は自然との知恵較べであったといえます。

東洋においても、1127年、中国では華北の漢民族の江南に遷都し、都市に人口が集中したため、塩の需要に追いつかず、燃料の薪が不足し限界に達した危機に直面した歴史があります。このとき、華北から江南に移住した漢民族から塩湖から塩水を引いた天日塩田の技術が伝来され、薪を使わない晒塩法(天日)が実現します。

わが国では戸時代から砂の毛細管現象を利用した画期的な入浜式塩田が開発され、200年以上にわたって行われてきました。

↑写真 入浜式塩田

地下に眠っている塩

岩塩・湖塩は、太古に海だったところが地殻変動によって陸に閉じ込められ、何万年という悠久の歳月をかけて緩やかに水分が自然蒸発し、濃い塩分を含んだ大地や塩湖になり、その上に土砂が堆積したものが岩塩層となります。

岩塩・湖塩は高温乾燥の気候で蒸発してできるので、大陸の内部に限られます。

岩塩は、海水中に溶けていた各種の塩類である硫酸カルシウム、塩化ナトリウム、硫酸マグネシウム、塩化カリウムなどは、それぞれ溶解度が違うので、溶解度の低いものから分離して堆積して岩塩層を形成します。岩塩は、塩化ナトリウムの層から掘り出したもので、純度が高い塩となっています。透明な白い岩塩はまれで、塩の結晶の中に鉱石が混ざっており、再溶解して白い結晶にします

ドイツで最もポピュラーな「アルペンザルツ」やオーストリアのアルプスの岩塩は、この製法でつくられたもので、異物がないクリスタルな結晶は、そのまま細かく砕いて製品化されます。モンゴル、ドイツ、イタリア、チリの岩塩が有名です。

岩塩の採鉱法としては、地中に鉱道をつくり採掘する「乾式採取法」と、塩の岩盤層までボーリングし、パイプで水を注入、溶解した濃い塩水を汲み上げる「溶解式採鉱法」(SolutionMining)があります。

19世紀ころにボーリング技術が普及し、飛躍的に塩の生産量が伸び、近代工業化が発展にともなって、化学工業用の塩の需要を賄っています。世界の塩の年間産出量は、2005年から平均して約二億三千万トンが産出され、その三分の二は岩塩や湖塩で占められ、三分の一は天日塩、釜で焚いた海塩です。

高純度の岩塩に比べ、湖塩には、塩類の組成が異なった多彩な個性を持った塩が採取されます。マグネシウム、カリウムなどが相対的に多く、複雑な組成を示す湖塩が多く、アフリカのナトロンコ湖、アメリカのソルトン湖など天然ソーダの採取が行われている塩湖もあります。食用には、アメリカのグレートソルトレイク、南米アンデスのウユニ湖、アフリカのチャド湖、オーストラリアの湖塩がよく知られています。

なかにはアメリカのユタ州での「リアルソルト」のように、ミネラルが豊かで味が良く、全米約3万5千人のシェフ達のコンテストで金賞を受けたものもあります。                        ↑岩塩採掘 ドイツ ソルべー・ヴェルケ社

 

鉄と竹で掘削する塩の井戸

中国四川の自貢は、塩の都として古代から2000年にわたる塩水が湧き出る井戸「自流井」で有名な塩産地です。汲み上げた井戸の塩水は天然ガスで煮詰めてつくられます。紀元前206年の前漢王朝には、すでに600メートルの深さの井戸が掘られたといわれ、古代中国の群雄割拠した時代、四川の塩地をめぐる争いが繰り広げられた歴史の舞台になっています。

1900年に四川を訪れた英国の技術者アップクラフトは、次のような記述を残しています。「ヨットが揚子江の峡谷から出たとたん、岸に一群の藁葺きの掘立小屋が立ち並び、蒸気と煙の雲がたなびいていた。それぞれ天辺に不格好ながたがたいう車輪をもった井戸から竹の「塩水管」が海水を汲み上げて煮つめる小屋に送られる(中略)毎年、水面が上がる季節が近づくと解体され、明くる年に組み立てられる。さらにひと月ほど上流にさかのぼらないと中心的な塩の町にはたどり着けなかった。自貢は大きな繁栄した町だ」と記しています。

1835年には、なんと1001.42mの深さまで堀削された記録が残っており、中国を訪れたドイツの鉱山技師たちは、先の鋭い鉄の矢尻と竹で深くボーリングする技術に驚き、始めて塩の井戸の存在を知ります。地下の塩水を汲み上げる掘削は、竹で括った重さ130キロから80キロの鉄のドリルを使って掘られ、採鉱夫たちが梃子の上でリズムをつけてロープを上げ下げして掘り下げていき、塩水のある岩塩層に到達すると、櫓に取り付けられた巻上げ機を牛に引かせて、長い竹の管で地下の塩水を汲み上げる装置です。

塩水の井戸は同時に天然ガスも出ており、竹の管で遠く離れた小屋に送って煮詰め用の釜の燃料に使われていたといわれます。すでに紀元前に開発されたこの高度なボーリング技術は、欧米において岩塩を溶かして塩水を汲み上げる技術に発展します。自流井の高度な掘削技術は、19世紀の石油開発に応用されています。                ←自流井風景 1637「天工開物」 宋応星著

 

 

世界遺産ヴィエリチカ塩坑

ポーランドのワルシャワ空港からポーランド国有鉄道に乗って古都クラクフに到着。クラクフ市街の中央市場広場は、1257年にヨーロッパ最大の織物業の交易所が開かれた、プラハ、ウィーンと並ぶ中世の文化の中心都市です。

第二次世界大戦でポーランドのほとんどの都市が廃墟となったときも、連合軍は古都を守るために爆撃を避けたのでクラクフの歴史的な建造物は、戦火を免れたといわれています。今も中世の街並みにポーランド王国の面影が色濃く残っています

クラクフの郊外の地味なたたずまいの町ヴィエリチカの地下に、1000年を超す歴史を誇る世界屈指の岩塩の坑道が広がっています。「神の恵みあれ」の挨拶に迎えられて、8人乗りの四階建てのエレベーターで地下の坑道に下りていきます。

岩塩坑の深さは300mにいたる地下のそれぞれの採掘跡は、ここを訪れた天文学者コペルニクスを記念したコペルニクス生誕500年記念の彫像、岩塩坑のガス発生を防ぐために松明で天井を焼く鉱夫、地下の塩湖から海水を汲む人と道具、そして100頭の馬が岩塩を運搬したという採掘の様子が展示されており、ヴィエリチカの歴史になっています。

地下100メートル下りていくと、岩塩の結晶で装飾されたシャンデリアが輝き、天井、壁、祭壇の全てが塩できた聖キンガ礼拝堂があります。広大な塩の空間にはイエス・キリストの生涯が描かれたレリーフが施されています。

ヴィエリチカ塩坑の創業は1044年と伝えられ、井戸を掘って岩塩層に溶けた塩水を汲み上げ、釜焚きして塩を採っていましたが、13世紀ごろから、縦穴を掘って岩塩の採掘に変ったことから、ヴィエリチカ製塩業が栄えたといわれ、その塩の交易がピャスト王朝にもたらす利益は莫大なものであったといわれます。ヴィエリチカの塩坑は、コペルニクスやヨハネ・パウロ2世も学んだように、優れた学者、鉱山技師が集り、錬金術、天文学、化学に関する幅広い学究の場でもあったといわれています。

 

 

8.塩の素顔

白い塩の結晶

塩田や平釜で、飽和に近い濃縮海水をゆっくりと蒸発させていくと、液の表面にシャーベット状の塩の結晶の粒が浮かんできます。その結晶は自分の重さでわずかに沈むとその周囲の上に第二、第三の結晶が成長し、逆ピラミットのかたちをした結晶体ができます。フランスでは、この塩の結晶を“トレミーの結晶”と呼んで、塩田の表面に花びらのように浮いたフルール・ド・セル(塩の花)を木の板ですくって採取します。

わが国の伝統的な製塩法は、塩田で海水を自然蒸発して濃縮塩水をつくり、平釜で加熱して塩の結晶を採りますが、天日塩田と同じように液の表面で、結晶が成長するので、平たな鱗状の結晶です。それが沈んで液中で結晶が成長して次第に塩がくっついて凝集塩となり、ザクザクした手触りの粗塩になります。

塩田や平釜の液表で結晶化した塩は、いずれもやわらかく、“軽い塩”になります。立釜とよばれる密封された真空式蒸発缶でつられる塩は、液中で撹拌されるため、

結晶が縦・横均等に六方向に成長していくので、サイコロ状の正六面体になります。

現在では製塩の技術革新が進み、結晶の成長の方法を変えることで、塩の結晶形自在に変えることができます。結晶の角が取れて凸レンズ型の塩や球状の塩になるなど、結晶形を変えることで用途に適した塩をつくることができます。

海水に含まれる塩類(ミネラル)の結晶化する蒸発する濃度はそれぞれ異なっており、海水量の5分の1ほど濃縮すると、まずカルシウムが結晶し始め、さらに容量が10分の1近くまで濃縮すると塩(塩化ナトリウム)が結晶化してきます。さらに50分の1くらいになると、硫酸マグネシウムや塩化カリウムが結晶化し、塩化マグネシウムは、容易に結晶しないで最後まで残ります。塩を採った残りの母液は塩化     □立方体        □トレミーの結晶      □フレーク塩

マグネシウムが主成分で、名前のとおりと強烈な苦味を呈します。ヨーロッパでは、「貧者の塩」と呼ばれた塩釜の底にこび

□粉砕塩         □擬集結晶        □微粒塩

りついたにがりの結晶は化学薬品誕生の出発点となっています。

イオン交換膜の釜でできた工業的な塩の結晶は、サイコロ状の正六面体ですが、流動状態が変ることで塩の結晶プロセス(育晶)と結晶の進む方向により、いろいろの形の結晶に変化していきます。伝統的な平釜焚きでは、液表面で結晶を成長させはと四角錐の結晶や、厚さの薄い鱗片状のフレーク塩となり、そして次第に小さな立方体の塩がくっついたザクザクした手触りの粗塩になります。

 

□塩の性格

色相 塩の結晶は無色透明。結晶表面の乱反射で白く見える。

比重 比重は2.16。サラサラした塩の見かけの比重は食塩で約1.2。

硬度 塩は石膏と同じ硬さでモース硬度2.0~2.5.(ダイアモンド10)

融点 800度以上の高温になると溶けて液体になる。

沸点 沸点は約1400度で、それ以上になると沸騰して気体になる。

氷点 水は0度で氷になるが濃い塩水は約マイナス20度まで凍らない。

潮解性 塩は湿度75%以上になると湿気を吸って溶ける性質がある。

 

二つの顔を持った塩

塩には食塩の世界と化学の世界の二つの顔をもっています。食用の塩を「しお」、化学用の純粋な塩を「エン」とよぶ二つの読み方に分れます

化学用語の「塩(エン)」は、酸化ラジカルの水素イオンが金属イオンに置き換わった物質で、酸と塩基との反応によって水とともに生じる物質をさします。

化学方程式では「塩酸+苛性ソーダ=塩化ナトリウム」で、塩化ナトリウムの純度が100%に近い化学工業の原料塩をさします。

食塩は、塩化ナトリウムを主成分とする結晶で「塩化ナトリウム+水=です。

旧専売法では「塩とは塩化ナトリウムの含有量が100分の40以上の固形物」と定義し、塩類のうち塩化ナトリウムを「食塩」といいます。(食塩は旧専売JTの商標)

塩はナトリウムと塩素が組み合わさった化合物ですが、それぞれ単体のときには、とても激しい性格をもっており、ナトリウムは化学変化で発火する金属、塩素は塩素ガスを発発生する気体で、安定させた化合物が塩化ナトリウム(塩)です。

海に囲まれたわが国では、むかしから海水から塩を採ってきたので「塩」といえば、塩化ナトリウムににがりのある食用の塩の結晶を思い浮かべますが、世界の塩には何種類もの塩があり、ひとが食用に好む塩が塩化ナトリウムです。海外の岩塩、湖塩、土塩には、塩化ナトリウム以外のカリウム塩、マグネシウム塩など、多彩な塩類が豊富に産出し、ハムやチーズなどの加工食品や化学工業の原料塩となっています。

海水塩の結晶には海水の様々なミネラルが付着し、結晶の隙間に閉じ込められているものが多く、本来、純粋な塩化ナトリウムを採取するのが難しい塩です。なかでも塩湖は、塩化カリウム、硫酸マグネシウム、硫酸ナトリウムなど、微量元素が多く含まれる個性的な塩が多く、古代中国人は硝石(硝酸カリウム)から火薬を発明し、エジプトでは、ナトロンと呼ばれる天然ソーダ(ナトリウム)でミイラづくりに使われました。

イスラエルの死海では、高濃度な塩水を蒸発し、カーラナイトの沈殿するまで濃縮してカリ塩を生産、さらに残った沈殿物から臭素を抽出しています。カリ塩は、カリ肥料、医薬品、熱処理剤として幅広く活用されており、臭素は医薬、染料、写真感光材剤、プラスチック、ガソリンのアンチノック剤(航空機、自動車の内燃機関でノッキングを起こさないようにする添加剤)などに利用されています。

 

□塩化ナトリウム以外の塩類と用途

硫酸マグネシウム(石膏)建材用、セメント用、豆腐製造用

塩化カルシウム 乾燥剤、除湿剤、融氷雪剤、冷却剤

塩化カリウム 肥料、医薬品、減塩サプリメント

塩化マグネシウム 豆腐製造用、融氷雪剤、建材

硫酸マグネシウム 医薬品、製紙、染料、肥料

炭酸マグネシウム ゴム増強剤、防火燃料、歯磨き粉、医薬品

酸化マグネシウム ゴム、医薬品、セラミックス原料

水酸化マグネシウム 吸着剤、医薬品、セラミックス

臭素  農薬、プラスチック、アンチノック剤

硫酸ナトリウム(芒硝) 染色、入浴剤、合成洗剤、医薬品

*『塩の科学』橋本壽夫/村上正祥著P126 引用

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増田 幸右 について

1964-1968 武蔵野美術大学 グラフィックデザイン科卒業 1968-1994 広告代理店電通入社 クリエーティブ・ディレクター 2002-2004 立教大学大学院 修士課程 2003-2008 (株)GN21 経営コンサルタント 2007-2010 浦安図書館ボランティアBCU会員 2010-2014 企業ブランドアドバイザー 2006-2014 日本海水学会員
カテゴリー: 第1章 塩の世界 パーマリンク

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