美味しい塩の系譜

1.原始・古代の塩

 

わが国の塩づくり

わが国では、約一万二千年前に縄文時代が始まり、約6000年前の縄文前期に温暖化が進んで氷河が溶け、暖流が流れるようになると現在の海面よりも三メートルも海面があがり、関西では瀬戸内海が誕生し、関東の霞ヶ浦も海が内陸まで入り込んでいたと推定されます。やがて気候が温暖で湿気の多い気候になると、照葉樹や落葉樹が生育し、森の周りに人が住みつくようになります。

食物は、イノシシやシカなどの狩猟やクルミ、どんぐりなどの木の実の採集、魚や貝の捕獲など、自然採取の生活環境がうまれてきます。

古代遺跡から動物の割られた骨が多数発見されていることから、ひとの生命を維持する塩分は、森で捕獲した動物の肉や骨髄に含まれる有機塩から補給していたと推測されています。食物の自然採取や狩猟の生活から定住した農耕生活に変わっていくと、料理用の塩や穀物の保存、家畜の飼料などの日常の暮らしに不可欠な塩が大量に求められてきます。

世界中に岩塩・湖塩・塩泉などの「陸の塩」、太陽と風で自然結晶した天日塩や釜で煮詰めた「海の塩」があります。わが国は、岩塩や塩湖などの塩資源に恵まれず、多雨多湿の気候で天日塩に適していないため、もっぱら海水から塩を採取してきました。海水には3.5%ほどの塩分しか含んでいないので、それを結晶化するために、釜で煮つめて加熱蒸発して塩を採取します。自然の太陽熱や風で自然蒸発してできる天日塩に比べて、加熱に膨大な燃料が必要になります。

わが国の塩づくりは、いったん海水を濃縮し、それを釜で煮つめて塩の結晶を採取するという製塩法が発達、海水から濃縮塩水をつくる「採鹹(サイカン)」と塩釜で煮つめる「煎熬(センゴウ)」のふたつの工程でつくられます。

そこで、いかにして濃い塩水をつくるか、釜を焚く燃料をいかに節約するか、塩職人たちの長年の塩づくりの知恵と工夫が蓄積し、伝統的なわが国独自の自然海塩がつくられてきました。

第二章「美味しい塩の系譜」は、わが国の豊かな食文化を支えてきた塩づくりの歴史です。伝統的な塩づくりと食文化の歴史をさかのぼり、そのなかから一筋の糸のように伝承されてきた「美味しい塩の系譜」を探し求めることで、塩の価値を再発見する塩の物語です。

 

□わが国の塩づくりの変遷

古代 BC1500-700 土器製塩 藻塩焼き 

中世 700-1500  自然浜・揚げ浜式製塩+土釜・貝釜

近世 1500-1952 入浜式塩田+平釜(石釜・鉄釜)

近代 1952-1972 入浜式塩田+平釜・蒸発釜 枝条架・流下式塩田

現代 1972-1997 イオン交換膜製塩法+真空式蒸発缶

 

塩づくりの源流・古代中国  

古代漢民族は華北、中原に居住しており、唐の繁栄は運城の解地の塩に支えられていましたが、安禄山の内乱(755-763)、そして北方胡族の侵入により漢民族の江南への大移動が始まります。

北宋が金に滅ぼされ、漢民族の南下により江南に遷都(1127)されると、都市に人口が集中したため、塩の需要が増大し、揚子江河口の江南、そして南の福建省にわたる東海、広東の南海沿岸で海塩の開発が盛んに行われます。

明のころ宋応星(1587-1650)が撰した「天工開物」には、次のような海水を濃縮する方法が記されています。

「潮に没しない高みでは、夜明けに雨がないのを見定め、その日のうちに稲や麦のわら灰を広く厚さ一寸ばかりまき、平らにならしておく。翌朝、露がつくころ、灰の下に塩の芽がにわかに伸びる。そこで日中晴れたときに、灰と塩を一緒に掃き集め、海水をかけて濾過して煮詰めて塩を採る」

さらに「海に近く、潮を深くかぶる土地では、はじめに深いみぞを掘り、横に竹をかけわたし、わらを敷きつめ塩がその上を乗り越えて通りすぎ、砂についた塩分がみぞの中に滴り落ちるのを待ち、砂とわらを取り去る。燈火で照らしてみて、塩気が立ちのぼって燈火がすぐ消えるようであれば、その塩水を採って煮つめる」と製塩工程が記されています。

下の「天工開物」 に載っている絵図にあるように、濃縮塩水は右の溜め池のみぞに蓄積され、それを汲み上げ、釜焚きする小屋に運ばれます。この濃縮塩水を溜める方法は、わが国の塩田における沼井(塩水ろ過装置)に相当します。

このような塩分を多く含んだ泥土、砂、灰を海水や井戸水で溶かし、濃い塩水を採取し、それを加熱して塩の結晶を採取する製塩は、すでに唐代に出来上がったといわれ、約一千年の長きに渡って中国沿岸の塩場で行なわれていた海塩の製塩法です。わが国には遣唐使の留学僧によって、その製塩技術が日本に伝来され、海水を直に煮詰める土器製塩から天日干しをした塩砂から濃縮塩水を採取する、「揚浜式塩田」「入浜式塩田」へと発達していきます。

江戸期に長崎に伝わった中国の技術書の「天工開物」は、製塩を始めとして、国内のいろんな産業技術に大きな影響を与えたといわれています。

 

古代の土器製塩

わが国の塩づくりは、四千年前の縄文時代の終わりころから、長江流域の稲作民族が黒潮に乗って渡来し、稲作と同時に製塩が始まったといわれています。

わが国では縄文時代から粘土で土器がつくられ、土器づくりの基盤があったので、自然に土器製塩が普及したと考えられます。土器で穀物を煮炊きするようになると、塩分を含んだ貝を煮て干物にし、内陸部の集落との物々交換が行われてきます。

明治10年(1877)、来日した米国の動物学者エドワード・モースが、横浜から東京に向かう汽車の中から大森貝塚を発見し、ここの調査で見つけた土器に縄の目の模様があることから、縄文土器の名がつけられ、塩は交易品として内陸の集落に供給されていたことが推測されます。

霞が浦の浮島で縄文時代の製塩遺跡が発見され、この遺跡から、海水を煮つめた製塩土器が出土しています。『常陸国風土記』に「乗浜の里の東に浮島の村あり。四面絶海にして、山と野交錯し、戸一十五烟、田は六十七町余なり。百姓は塩を火にて業と為す」と記され、霞ヶ浦沿岸には、山奥の集落へ塩や干貝を供給していた塩づくりの専業集落があったことを物語っています。土器製塩は、縄文晩期(BC500年)には関東一円に広がり、東日本から瀬戸内海に波及、しだいに北九州、紀伊半島、東海地方に広がり、各地の海岸で塩づくりを専業とする集落が形成されていきます。

初期の製塩土器は、口径が20センチから30センチの深い鉢や甕で、底が尖っており、複数の土器を直接砂浜に突き刺して石の炉を焚いて海水を煮つめて塩の結晶を採取していましたが、時代が進むにつれ、製塩土器は次第に薄くなって、口径10センチ前後の小型の薄い土器が使われるようになってきます。それは濃い海水を煮つめるのに熱効率を高めるように工夫されたものだと考えられます。

海水の濃縮用の土器と煮つめ用の土器の二つの土器を使い分けして塩の量産を図ったという見方もあります。縄文時代の貝塚に大量の土器の破片が層をなしているのは、土器を割ってなかの塩の塊をとりだし、薄い土器は使い捨てされていたことを物語っているからです。

生活に欠かせない塩の需要が増加してくるにともなって、製塩土器のサイズや使用法が変り、瀬戸内海沿岸では師楽式土器が製塩に使われ、香川県喜兵衛島の海岸近くに石で囲んだ炉の跡が発掘されており、たくさんの濃縮した海水を焚くのに大型の土鍋を竈(かまど)で焚く方法に発展していきます。

縄文時代の素焼きの土器にはじまる、一万二千年の土器づくりの伝統は、後世、貝灰を練り込んだ土釜や竹籠に粘土を塗りつけた網代釜、そして花崗岩の石釜へと発展し、わが国独特の海水を煮詰めて塩を採取する「平釜」の原点となっています。

 

塩の交易-塩の道

近年、三内丸山遺跡をはじめ、多くの縄文遺跡が相次いで発掘調査され、縄文時代の生活は、これまで考えられてきたような原始的な生活ではなく、大規模な集落を形成して作物を栽培し、広範囲に移動していた縄文人の暮らしが明らかになってきています。

遠く離れた内陸部の縄文遺跡からも海浜と同じ製塩土器が発掘されていることから、土器に入れた塩が交易品として流通したことが推測されます。

海浜には塩づくりの専業集団が形成され、河川や海を通して塩や干貝、海草などの海産物の交易が活発に行われていました。塩漬けされた海産物は、舟運で河岸に運ばれ、そこから牛馬に積んで内陸の山村に流通の輪が広がっていきます。

民俗学者、宮本常一の著した『塩の道』に、山奥に住む老人の塩にまつわる昔話が

載っています。「大和の山中の人たちは、塩鰯を買ってくると、決して煮ないでかならず焼きます。煮ると塩が散ってしまうからです。焼いた日はまず舐める。次の日に頭を食べ、その次の日は胴体を食べ、そして次の日は尻尾を食べるというふうに、一匹の塩鰯を食べるのに四日かけるのです。それほど塩というものは貴重でした」と、塩の採れない山村の人たちの切実に塩魚を求めていた様子が語られています。

塩漬けの魚が求められたのは、栄養を摂るために魚を食べるというよりも、塩を摂取するということがもうひとつの目的であり、塩漬魚には付加価値がついて塩より高価で取引されました。海から遠く離れた人たちの切実に塩を得たいという願望が、海岸から奥深い山村まで塩を運ぶ「塩の道」ができた原点になっています。

塩は最古の商品で、塩の交易が商業発祥のルーツとなり、塩の交易の道はいろんな文化を運ぶ道でもあります。

 

万葉の藻塩焼

約2500年前、縄文の終わりころから弥生時代にかけて、大陸から稲作民族が西日本へ移住、農耕生活が始まります。稲の収穫によって毎年、安定した食料が得られるようになると、生活必需品の塩づくりが本格化してきます。

海水を直に土器で煮つめる製塩から、干した海藻に海水を注いで表面の塩を溶かして濃縮塩水を採るという、稲作民族と一緒に渡来した製塩法が「藻塩焼」です。

万葉集に「淡路島松帆の浦に朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ」と謳われています。この煙が、あたかも藻を焼いているように見えることから”藻塩焼き”と呼ばれたのが、名前の由来といわれています。万葉集や風土記に「藻塩焼く」「藻塩垂る」という藻塩を示唆する言葉が発端となって、塩の研究者たちは藻塩焼を学術的に解き明かそうとしてきましたが、わが国の古代の製塩法について、具体的に記された史料はまだ見つかっていないので、藻塩焼の方法を示唆した絵図や詩歌などから推察しています。

藻塩焼について推定される製塩法には、①乾燥した藻を焼き、その灰を海水に入れるか、あるいは海水を注ぎ濃縮塩水をつくり、これを煮詰める ②天日塩を焼いた海藻を積み重ね、上から海水を注いで濃縮塩水をつくり、煮つめる ③乾燥した海藻を焼いて、その灰を海水で固めて灰塩を作るという諸説があります。最も古い記録の『常陸国風土記』には「乗浜の里の東に浮島の村あり。郡の西に津済あり。いわゆる行方の海なり。海松の塩を焼く藻生ふ(中略)この海に塩を焼く藻、海松、白貝、辛螺、蛤、多生へり」という記述があります。

また『塩釜由来記』によれば「奥津彦の老翁・老女は七つの竈を造り,荒塩の老翁、多礼塩の老女は灰塩を七つの壺に入れ、佐多彦、多美彦、藻彦、多利水彦、小塩彦、八塩彦の七神が七壺の多利水を塩桶で汲みいれ十四神の老翁・老女は熾に火を焚く」と記されており、藻塩焼の製塩法は、藻を刈り、乾燥させて灰塩をつくり、海水に溶かした濃縮塩水を煮つめたことを物語っています。

古事記には、わが国の古代神話に塩の神、塩土(しおつちの)老(おき)翁(な)が登場し、各地に塩づくりを伝えた伝説が記されています。有名な「海幸彦と山幸彦」の物語には、弟の山幸彦は、兄の海幸彦から借りた釣針で漁に出たがそれをなくしてしまいます。釣針を返せと兄に責められた山幸彦が浜辺で泣いていると、そこへ通りかかった塩土老翁が同情し、山幸彦のために竹籠の小舟をつくり、「これに乗って潮に乗っていけば、海神の居城につく」と教えます。山幸彦は海神の竜宮に辿りつき、失くした釣り針が見つかり、宝までもらって故郷に帰ったという伝説です。

塩づくりの神様、塩土老翁が祀られている宮城県の塩竈神社では、毎年7月になると、御釜社で「藻塩焼神事」がとり行われています。

神事は、海藻のホンダワの採取に始まり、炉にのせた平らな鉄釜に竹を編んだ簾の子に敷いて、海藻を山積みした上から海水をそそぎ、その滴下した濃い塩水を鉄釜で煮つめて塩をつくる行事です。

*写真 藻塩焼神事 たばこと塩の博物館

 

2.藻塩焼から塩浜へ

黒い塊から白い塩粒に

藻塩焼きで出来た塩は「白くサラサラした塩」というイメージからほど遠く、黒塩と呼

ぶにふさわしく、煙で黒っぽく汚れた塩の塊でした。

この黒塩を淡い色にするために、土器ごと焼きあげ、土器を割ってとりだした固形の焼塩を「堅塩」といいます。料理に使うときは、木臼で挽いて細かな粉砕にして使われ、それを「破塩 (わりしお)」とよんでいます。

古墳時代(400年)のころから、海藻についた塩粒を海水で漉して濃縮塩水をつくる藻塩法から、塩のついた浜の砂を海水で溶解して濃縮塩水を採る方法へと転換していきます。わが国の塩が黒い塊から白い粒状の塩に変化した、画期的な塩づくりの変革です。浜の砂から濃縮塩水を採取する初期の方法は、潮が引いたあとの乾燥した砂をかき集めて竹籠にのせ、海水を注いで塩分を溶解して濃縮します。

使われた砂は、その場所に山のように積み上げ、つぎに満潮になるのを待ち、千潮で塩の付いた砂を求めて転々と移動していきます。浜砂を積み上げた姿は富士山の形をしていることから、塩尻法と名付けられています。

このような自然浜の塩づくりから、つぎに人工的に海浜に塩田を築く塩づくりに発展していきます。太陽熱と風を利用して塩の結晶のついた塩砂を採るのに二つの方法があります。ひとつは、海面より少し高いところに塩浜をつくり、そこ海水を運んで散布して天日を利用して塩砂をつくるもので、「揚浜式塩田」とよばれます。もうひとつの方法は、遠浅の干潟を利用して堤防で仕切って塩田をつくる「入浜式塩田」です。

調・庸の塩が藻塩焼から粒状の塩になると、塩釜から採取した粗塩を木型に詰めて固形塩にし、それを焼き固めた堅塩が納められるようになります。

また、内陸部の山村との塩の交易には、土器やあわびの貝殻に入れて焼き固めた堅塩にして運ばれます。     ↑揚浜式塩田 「日本山海名物図鑑」

平城京遺跡から出土した木簡には、諸国の貢物とともに、九州島原、瀬戸内、紀伊、若狭、能登、佐渡、三河湾など、諸国から朝廷に塩が送られていたことが記され、それに「塩一顆、穀二斗」と書かれているのは、塩が果(顆)で数えられ、固形塩だったことがわかります。

わが国の”塩を焼く”という発想は、塩は溶けて水になるという感覚から生まれています。西洋では、雨量が少なく空気が乾燥しているので、焼く永遠に変わらないものという感覚がありますが、わが国では、湿度が高く雨が多い気候のため、塩は湿気を吸って溶けるものという感覚の違いがあります。

わが国の塩の歴史を振り返ると、焼塩づくりは、紀元前の縄文時代の土器製塩に始まり、古墳時代に豪族に税として納める塩は、固型にして焼いた「堅塩」でしたが、奈良・平安時代は諸国の塩産地から、焼塩にして都に納められています。

京の都の公家・寺社などの上流階級では、昔から真塩を焼いた高価な焼塩が日常の料理に使われており、焼塩を使うのは上流階級に限られていました。

湿気に溶けないサラサラとした白い焼塩は、粗塩のにがりの苦味や雑味が消えてまろやかな淡い塩味になってきます。中央貴族の焼塩による料理の味覚が「上方の淡味」の原型をなすものではないかといわれる所以です。

そのため、輸送や保存中に塩が溶けるのを防ぐのに、焼き固めて水分を取り除いた堅塩にしたわけです。また、塩を焼くことによって、塩のにがりの臭みや舌を刺す塩角がとれてまろやかになってきます。焼塩は日本人の繊細な味覚を育てた大きな要因になっています。地球上の湿度の違いが食文化に色濃く反映しています。

毎年、伊勢神宮では古代の堅塩を今に伝える塩づくりの神事が再現されています。夏の土用のころに神宮の近くを流れる五十鈴川河口の二見海岸の塩田「御塩浜」で濃い塩水がつくられ、それを御塩殿神社の塩釜で薪を焚いて粗塩をつくり、三角錐の陶器に詰めかまどの中に入れて焼き固めます。翌朝、焼き上がった堅塩をとりだし、身を清めた白衣の「御塩方」の手で外宮に収められます。この堅塩奉納の行事は、毎年10月5日に「御塩殿祭」としてとり行われ、多くの参拝者が参拝に集まります。伊勢神宮の堅塩は、清めの塩、吉事には祝いの塩として米とともに神に供えられます。この日は全国から塩業関係者が参拝に集まり、塩業の発展を祈願します。

海藻から塩砂へ変遷した塩づくりの伝統は、昭和27年(1952)流下式に転換されるまで、約1500年もの間伝承され、わが国の美味しい塩づくりの系譜となっています。                    

↑伊勢神宮の堅塩

 

□濃縮塩水をつくる方法

 

海水直煮法

海水を直接釜に入れ、塩水の濃縮から結晶化までを行うもので、古代の製塩土器に始まり、焼貝粘土釜、鉄釜で煮詰めて塩を採取した製塩方法です。

塩浜や気候に恵まれない日本海沿岸や鉄が産出した三陸海岸の塩浜で行われ、明治の末期まで存在していました。

 

揚浜系塩田

高い海岸の砂地を平らにして、粘土で突き固めて水が染み込まない地盤をつくり、その上に砂を敷いた塩田に海水を散布し、太陽熱と風で水分が蒸発した塩砂を沼井と称する浸出装置に集めて、海水を注いで塩分を濃縮する塩田。干満さの小さな日本海沿岸に主として存在し、波打ち際に地盤を造成した塩田を汲潮浜といいます。

 

入浜系塩田

 干満差の大きな瀬戸内海や外海に面する湾内に主として存在し、満潮を利用して塩田に海水を溜め、塩田地盤に浸透した海水が毛細管現象で上昇、天日と風によって表面の砂粒に塩の結晶を付着した塩砂から濃縮塩水を採る方法です。

室町末期から江戸時代にかけて、石垣の防波堤で囲んだ入浜式塩田が登場してきます。(詳細は江戸の塩)

江戸時代に赤穂で開発された大規模な入浜式塩田が出現する以前は、全国的にこのような自然浜での直煮や揚浜式塩田、入浜式塩田が幅広く行われていましたが、気候や遠浅の地形に恵まれた瀬戸内海沿岸に集中していきます。

 

鉄釜の登場

大和朝廷を中心に豪族の連合政権ができた4世紀ころの古墳時代、百済の渡来人がもたらした鉄釜は若狭に伝承され、富山、北陸諸国に広がり、鉄の産出する東北沿岸も鉄釜が使われるようになってきます。

奈良時代の「正倉院文書」(737)に「煮塩鉄釜」という名がでてくる鉄釜は、周囲に一丈七尺ほどで直径五尺八寸もある大きな平釜であると記され、塩が大量に採取できる塩釜だったことを物語っています。

鉄釜は高価で貴重品だったので、燃料の薪になる塩山をもっている寺社や浜の支配者たちが所有し、塩浜の領民に貸し、その見返りに塩を納めさせたといわれます。

鉄釜のかたちは、丸型と正方形の平釜があり、鋳鉄と和鉄に分けられ、東北の三陸海岸では、和鉄の鉄板を接ぎ合わせた「和鉄板鋲継釜」を使用、日本海岸では鋳鉄円型釜を使って、海水を煮詰める釜に使われています。

なかでも若狭湾沿岸の塩浜で使われた若狭釜は、良質な鉄が産出した近江の鉄が使われ、越後から能登半島の塩浜に広く普及しています。

鉄釜の登場で、それまでの貝釜や土釜が一挙に鉄釜に移ったわけではなく、塩浜の形や規模に適したかたちで共存していました。九州地方、西南諸島では「網代釜」が使われ、塩づくりの盛んな瀬戸内海沿岸では鉄釜と石釜の両方が使われており、明治末期に至るまで続いています。

古代中国では鉄釜の周囲に竹や葦で囲い、それに貝殻の粉でつくられた漆喰で塗り固めた塩釜が使います                             わが国の神社のご神体に祀られている鉄釜は、塩を焚くのには底が浅く、塩を煮詰める釜ではなく、粗塩を煎じて献納する塩や戦の兵糧の焼塩をつくるのに使われていたのではないかといわれています。

←元代熬波図/かん水づくりと煎ごう                

 

朝廷に貢ぐ調・庸の塩

飛鳥・奈良に都が設けられ、中国の唐にならった律令国家の体制が整備されます。大化改新から奈良平安初期までの三世紀にわたって、日本各地に荘園に水田を基盤とする税制が施行され、公民には収穫した米で払う税「租」、労働を提供する税「庸」、特産品を献納する「調」の三つの税が課せられました。

古来、神社の祭紀には供物として塩と海藻が供えられ、瀬戸内海、若狭湾などの海浜にある荘園から年貢として納められていました。

朝廷に調・庸の塩を献納した国は、伊勢・備前、備後、安芸、尾張、三河で、調のみの国は、若狭をはじめ播磨、備中、讃岐、備前、伊予、淡路など、近畿に近い瀬戸内海沿岸諸国でした。奈良・平安を通して調の塩は、ひとりにつき、三斗、庸の塩は一斗五升と延喜式に定められ、塩浜の浜人自ら、都まで運んでいきました。

都市の人口が増加し、塩の需要が増してくると、塩づくりに大量の燃料が必要になってきます。塩浜が誕生したころは,税である調・庸の塩をつくるのに共有の山林で薪を調達できましたが、山林の領有権がはっきりするようになると、塩浜での薪の供給が制約されてきます。奈良時代の貴族、社寺は、塩浜近くに薪が採れる「塩山・塩木山」とよばれる広大な山林を所有していたので、しだいに権門寺社に塩浜と塩山が囲い込まれていきます。

大規模な塩の生産が行われるようになっていくと、塩浜の農民に燃料の薪を供給し、塩焚きをする塩屋をつくり、その代償に塩を税として徴収するようになります。

奈良時代から平安初期にかけて、地方の土豪たちは、中央の貴族や社寺に塩浜の荘園を寄贈し、浜の百姓を雇って塩づくりをする塩の荘園ができてきます。

 

雪の如く白い粒の塩

洋の東西を問わず、塩職人たちがめざした理想の塩は、“雪の如く白い塩”です。

正倉院の宝物に中国の西域のシルクロードの砂漠に産出する岩塩が収められてい

ます。この白く透明な岩塩は光明塩とよばれ、朝廷の儀式や薬用に使われた貴重な塩で、朝廷に献納する理想の塩とされたものです。これをもとに白い塩をつくるにはどうしたらいいか、塩職人たちの限りない挑戦が始まります。

そして工夫を重ねるうちに、土器に代わって、貝を焼いた灰に粘土とにがりを混ぜた土を竹籠に塗り、焼き固めた「貝釜」が使われるようになってきます。

応神紀に廃船の「枯野」を薪にして500篭の塩をつくって諸国に送ったという古文書の記録からみて、それに見合った大きな塩釜があったことを物語っています。

粘土だけで出来た大型の釜は、すぐにひび割れが入り使えなくなるため、そこで貝殻を焼いた粉を粘土に混ぜて強度を増した塩釜が普及してきます。竹を編んで泥と貝灰を塗りこんだ「貝釜」、竹籠に石灰泥を塗って焼き固めた「網代釜」が登場してきます。その後、釜底に石を敷きつめ、その隙間を漆喰でつないだ「石釜」が開発され、地域の塩浜に適した様々な塩釜が発達していきます。

なぜ、貝釜や石釜に替わって、効率の良い鉄釜に移行しなかったのか。その理由のひとつは、鉄釜が高価であっただけではなく、強火の鉄釜は上手に焚かないと鉄錆が出てきて赤みを帯びた塩や大粒な荒い塩になるからだといわれます。

熱の伝導が穏やかな貝釜や石釜を使って、塩職人が粥のように煮立った塩を丹念にかき混ぜてじっくり炊いて白い粒状の美味しい塩が仕上がります。

平安時代になると若狭、瀬戸内海沿岸の塩荘園から、それまでの黒っぽい堅塩に替って、サラサラとした白い粒状の焼塩が献納されるようになってきます。

粗塩を再度、土器に詰めて容器ごと焼き上げることで、色を淡くすることができることから、京の都に焼塩が広く流通するようになると、支配者の塩であった堅塩は、すでに宗教的な祭祀に使われる塩となり”御下がりものの塩”といわれ、貧者の塩ともよばれるようになります。

 

□塩釜の種類

 

網代釜

竹籠に石灰、砂で練られた粘土で塗り固めた塩釜で、木組みの渡りに吊し、下から薪を焚いて濃縮海水を煮詰めます。鹿児島湾や天草、西南諸島の古式汲塩浜において明治30年頃まで使用されていた塩釜です。

 

貝釜

正しくは「焼貝殻粉粘土吊釜」とよばれ、塩釜の材料は焼貝の殻の粉を混ぜた粘土でつくった吊り釜で、四方に吊り鉄を植え込み、縄で吊るすし、底裏を焼き固めた結晶釜で、中世より海水直煮、自然揚浜、初期の入浜式塩田と組合せて塩の結晶を採取していました。

越後、加賀、若狭湾などの日本海沿岸、駿河湾、江戸湾、伊豆諸島などの塩の産地に広く使われていました。

 

石釜

江戸時代に瀬戸内海の入浜式塩田で最も使われていた塩釜で、貝灰、松葉灰、石灰などを苦汁の混ざった漆喰で板状の花崗岩を継ぎ合せて釜底を作り、吊り鉄を固定して底の表面を焼き、上の木組みの渡りに縄で吊った大型の平釜です。

(詳細は江戸の塩に)

 

3.京の真塩

京料理を支えた真塩

繊細な京料理の味を支えたのは、洗練され真塩の存在があります。真塩は塩田で濃縮した塩水を平釜で焚いて、最初の塩の結晶を笊に採り、一日、二日ほどかけてにがりを滴下した塩です。それに対して、真塩を採取した後、歩留まりを上げるために濃縮塩水とにがりを足しながら釜で煮詰めた塩で差塩といいます。

真塩とにがりを多く含んだ差塩は、料理や調理において上手に使い分けする、美味しい料理や塩蔵食品をつくる塩の作法があり、明治の終わりころまで真塩・差塩は品質の良し悪しを表す物差しとなっていました。

日本料理の日本料理の底流には、京料理を支えた真塩という美味しい塩の系譜が脈々と引き継がれています。京料理には、粗塩のもつ苦味や“えぐみ”を取って雑味のない塩味を作るのに、粗塩を煮たてて卵の卵白でアクをとって雑味のない塩をつくる作法があります。

また旬の食材の味を活かす懐石料理では、にがりが多すぎるとうま味成分と結びついて、だしのうま味がでてこなくなるので、料理の前に粗塩を鍋で炒めてにがりを飛ばした炒り塩を作ったといわれます。いずれも、洗練された微妙な味付けのできる、使い勝手のよい塩をつくる料理人の知恵が生みだしたものです。

大坂、京都の都市では、真塩を好み、農山村では、自家製の漬物、味噌醤油の需要が多く、差塩が好まれました。塩の採れない東北・北陸や内陸部では、塩の運搬費が高いため、高価な真塩は敬遠され、                                近世に入り、塩の生産の9割を占めていた瀬戸内の塩田から塩廻船で塩が諸国に移出されるようになると、大坂・京都中心の都市部には真塩が売られ、江戸や東北に運ばれる塩の大部分は差塩が運ばれました。

竜野の淡口醤油の醸造や京の白味噌には、真塩が原料に使われ、京料理や塩蔵食品の味を支えています。差塩の辛い塩味が東北地方の食材と出会い、独特な味をもつ塩蔵食品を生み出しました。真塩・差塩の塩味の違いが、関西の薄味、関東の濃い味を好むという味覚の違いを育てたともいわれます。                                       

料理写真 京都菊の井

 

塩蔵文化の原点「京料理」

平安時代の食膳には、高盛りしたご飯のまわりに小皿に入れた塩、酢、醤、酒などの調味料が添えられ、おのおのが副食物に好みの味付けをして食べます。

大和朝廷が誕生して以来、都には塩や海産物は祭紀の神にささげる供物として諸国からいろいろな塩蔵食品が貢進されてきました。

平安時代の延喜式(927)には、干鮭、氷頭(鮭の頭部軟骨の塩漬け)、酢鮎、塩塗鮎、鮭内子(筋子)、海鼠腸(このわた)(ナマコの腸の塩辛)、干しアワビ、背腸(鮭の背骨のメフンの塩辛)、楚割(魚肉の細切り干物)、猪の干し肉、スルメなど諸国の特産の塩蔵食品と乾燥食品が記されています。京の都は食材の宝庫でした。

都に運ばれる食品は、塩蔵か乾物、塩は焼いて貢納するよう賦役令で定められていました。これらの加工食品をつかった料理や塩抜きの調理法が発達します。今も京都名物の鱈の干物の煮物「いもぼう」や「ニシンそば」など、乾物を使った料理が伝承されています。

平安王朝が花開くにつれ、仏教の影響が強くなり、肉食を忌み嫌い、魚を食べる料理が中心になってきます。なます、馴れずし、あつもの、焼魚など、貴族の食卓を飾る京料理がつくられています。食材の塩漬けは、鮒寿し、塩辛、魚醤、漬物、味噌や醤油の醸造など、さまざまな伝統的な発酵食品を生みだしています。

京都は、良質な水に恵まれ、寒暖の差が厳しい気候と地味の豊かさが京野菜とよばれる美味しい野菜が採れます。京の都は海から遠いので、諸国から運ばれる干物、塩漬けの海産物と野菜を上手にとりあわせた料理が日本料理のかたちを作り上げた原点になっています。海の幸、山の幸の互いの味を活かし合う、食材の組み合わせを大切にする “であいもん”という言葉に、京料理の心が隠されています。

 

信長の味覚

京料理の洗練された味覚を表すのに、塩気のきいた濃い味を好んだ織田信長の話がしばしば登場します。感性が鋭い信長の気性とピリッとした塩辛さのイメージに重なるからでしょう。

信長が京に上洛した折、料理人で知られた三好家の厨人、坪内石斎が腕をふるって淡味仕立ての京料理を作り、信長の食膳にだしたところ、それを口にした信長は、「こんな水くさいものがくえるか!」と激怒し、箸を投げ捨て「即刻、打ち首にせよ」と怒鳴りつけ処刑を命じます。家臣のなかに彼を知る者がいて、その料理人の腕前を惜しみ、処分は料理の巧拙で決めたらいかがなものかと信長に進言し許しを請います。

坪内はいま一度、濃い味付けの田舎風の料理を出したところ、信長は大いに満足し罪を許して織田家の料理番に召し抱えたという逸話かあります。            

京のひとたちは、“あだ辛い”味を好んだ尾張人の信長を「やっぱり信長は田舎者だ」と味に鈍感なひとのたとえ話によく使われました。ちなみに“水くさい”というのは、

汁の塩味の薄さを表現する方言で、濃い塩味を“あだ辛い”ともいい、地方によって塩味の濃淡を表すことばが異なっています。

京の都には全国各地の塩蔵食品が集まり、公家や寺社などの上流階級の食卓には、塩抜きして淡味仕立ての多彩な料理が並んでいましたが、一方武家社会の食事は質素で、主食の飯に、塩、味噌、漬物、塩干魚、野菜の煮ものなどを副食にして一日三食の食事をしていました。

それは戦陣での武士の兵糧が干し飯、玄米の握り飯、副食は味噌か漬物だったので、いつ合戦が起こっても飢えに耐えられるように、常日頃より質素な食事をこころがけていたといわれます。

『日本人と食物』を著した樋口清之は、筋肉労働をする武士は塩分の消耗が多いから塩分を多く摂取しなければならないが、京の公家は汗をかかない知的労働が多いので塩分が少なくて済むのが薄味の原因だと述べています。

京の料理に比べて、武士の濃い塩味は信長の時代から始まったともいわれます。

 

京の塩座

中世、京の都に運ばれた塩は、瀬戸内海、日本海の若狭、伊勢湾の塩でした

瀬戸内海の塩は、堺や淀の塩問屋に陸揚げされると、馬借で奈良方面に運ばれ、大消費地の京都には、淀川をさかのぼり淀の津に集積されます。淀の津は木津川,鴨川、宇治川の合流点で、「淀の魚市」とも呼ばれた京の台所でした。

陸揚げされた塩は、馬借によって京都に運ばれると、六人百姓とよばれる京の塩座をとうして洛中で売られます。日本海からの塩は、敦賀から琵琶湖の舟運で近江に運ばれてきます。平安末期から近江商人の粟津供御人が関銭免除の特権を与えられ、塩と塩合物(干物、塩漬魚、塩蔵食品、海藻)の京都における流通を独占します。

奈良方面への塩は、興福寺大乗院に送られ、奈良の塩問屋で構成された木津塩座から振り売りする小売りの座に卸されます。塩座の塩商人はたがいに平等の権利と自治権が認められ、大乗院へ毎月100文、またはそれに見合う塩を献納することが義務付けられていました。

奈良の興福寺、伊勢神宮、京都祇園の石清水八幡宮、日吉神社、東寺などの寺社は、瀬戸内海、若狭湾周辺に塩荘園を所有しており、塩や魚介類を年貢として調達されます。塩荘園から都に送られる塩は、貴族、寺社の台所での使用はもとより、祭事の供物、役人の給料や寺院の建設の日当などに支給されます。

余剰の塩は特権的な塩座商人が市場で売り、権門寺社の貴重な財源となります。

13世紀中頃から米・塩などの年貢は、銭貨による納税に代わり、塩が商品として全国に流通していきます。各地の城下町、社寺のまわりで、麻や綿織物、酒や味噌醤油、茶などの日用品、陶磁器、木工品などを商う市庭(市場)が盛んに開かれ、連雀商人とよばれる旅の行商人が集まってきて、商品と貨幣経済が芽生えたてきます。

天皇・神仏に直属する供御人、神人たちは、塩荘園の代理人として関所の免税の特権を与えられて塩座商人として幅広く活動するようになっていきます。土倉や問丸とよばれる高利貸や塩問屋、倉庫業が、経済力を基盤に中世の中央商人に成長していきます。

 

室町にできた和食の原型

室町時代になると、農業生産が飛躍的に増加し、城下町の市場には、商品の流通が活発化し、能や茶道、庭園の芸術文化、禅の色彩の濃い懐石料理などの食文化が誕生、日本人の衣食住の生活文化の原型がつくられた時代です。

室町時代の食文化を象徴するのは、塩味調味料の味噌・醤油が普及し、昆布と鰹節だしを使った、うま味の料理文化が誕生したことです。

安土桃山時代には、大名の間に茶の湯が流行し、茶会でのもてなしに精進料理と本膳料理を取り入れた簡素な懐石料理が出現します。鎌倉時代に中国から栄西がもたらした飲茶の習慣が茶道のはじまりといわれ、これを侘茶の世界に高めた千利休は、一汁三菜という簡素化した料理を重んじ、「季節の相たる魚鳥をつかうべし、また草木の類も時ならざるものは遠慮あるべき也」と季節の旬の食材を取り合わせる懐石料理が上流社会に流行します。懐石料理の発展により、食の美学ともいうべき食事作法や料理の流儀が生まれてきます。

公家や武家に仕えて鯉や鯛、鮎などの刺身、焼魚を調理する料理人は、「包丁人」とよばれ、四条流など、いろんな流派がうまれ、今日の板前の系譜となっています。

一方、禅宗寺院の庫院(台所)では、「調菜」という役僧がいて精進料理をつくっており、豆腐、湯葉

↑平安時代の厨房 「春日権現験記絵」東京国立博物館蔵

理にはじまり、京漬物、餅など、禅寺の調菜が作る料理法が京の庶民に広がっていきました。一般庶民の間にも一日三度の食事の習慣が定着し、主食のご飯に副食という一汁三菜の和食のかたちが出来上がります。                  

 

4.戦国時代の塩

塩の商いと楽市楽座

戦国大名たちの群雄割拠した戦国時代は、塩は戦の重要な兵糧として備蓄の対象になり、需要が増大してきます。京,大坂を中心に塩と塩合物が全国流通します。

商品経済が発達して経済力を握った塩商人が活躍、わが国の塩業史において、戦国時代は “塩の時代”ともいわれています

永禄十年(1567)、美濃を平定した信長は、岐阜に最初の楽市楽座を設け、市場税や関銭を免除し、座に入っていない商人、職人でも自由に商売できるような市場を開きました。

永禄11年(1568)、戦国乱世にいち早く名乗りでた織田信長は、足利義昭を奉じて上洛、公家・社寺などの旧勢力の排除に力を注ぎます。

安土城を建造した信長は、ここでも安土の城下町に楽市楽座を開いて諸国の商人を集め、関所の通行税を免除し、朝廷の権威を背景にした権門社寺が支配していた座を禁じた結果、寺社の塩座の権威もしだいに力を失っていきます。

信長は上洛するとすぐに堺に二万貫の矢銭(戦費)を課します。自治都市、堺商人の納屋衆が抵抗しましたが、三好三人衆の兵が敗走したため、ついに堺は信長の軍門に下ります。これを機に、信長に協力した今井宗久や津田宗及などの納屋衆を重用し、堺を拠点に南蛮貿易を通して鉄砲、火薬などの戦に必要な武器を調達、彼らを銀山や商業地の代官に任命し、産業の振興を図ります。

これまで塩・塩合物は、比叡山や興福寺などの権門社寺の支配下にある塩座商人が独占していましたが、信長は、堺を攻め落とすと直ちに、今井宗久に淀の魚市の市場税の徴収権を与え、船の通行税を免除しています。

また政治においても、納屋衆のひとり、千利休は、茶の湯を通して信長、秀吉とも深く関りをもつようになります。商人たちの経済力は無視できない大きな力を持った時代です。

 

城盗りの塩

戦国の乱世に一国を支配した戦国大名は、城を築いて城下町をつくり、領内の農地の開発と商工業の振興に力を入れていました。

海沿いの諸大名は、塩の自給自足をめざし、競って領内の塩田の開発を進め、山林を開放して燃料の薪を提供するなど、塩業を支援しています。 『雑兵物語』には、戦いに必要な兵糧は、米は兵ひとりに一日六合、塩は兵十人に一合、味噌は十人に二合が必要だと記され、塩は野戦における兵站、籠城の備蓄に欠かせない重要な戦略物資として貴重な商品価値をもっていました。

絶えず闘いの歴史を持つ古代中国では、家の壁の中に塩や昆布を塗りこめておいて、いざというときのために備える慣わしがあったといいます。

戦国時代、城攻めの戦いには、しばしば水攻め、塩留めの戦術が常套手段となっており、領民の暮らしを守るためにも、塩は生活に欠かせない必需品とでもあり、戦国の覇者、秀吉は兵糧の調達をたいへん重視した天下人です。播磨の高松城の水攻めのように、戦わずして国を盗る兵糧攻めは、秀吉の最も得意する戦術であったからです。                       

『多門院日記』(1589)によると信長の塩座の改革で塩の相場が下落したのを機会に、秀吉は弟秀長をつかい、それまで塩の流通を支配していた興福寺一乗院の塩座を無視して、領民の一家に一石ずつの塩の夫役を命じ、郡山城の塩の備蓄にちからを入れました。

文安二年(1445)、兵庫北関を通過した廻船の半数は塩船であったという記録から、瀬戸内海沿岸の塩が盛んに諸国に運ばれていった様子がうかがえます。         *写真 姫路城塩蔵 姫路城観光協会パンフレット

戦国大名の城には、どこも塩を備蓄する塩蔵を設けており、なかでも秀吉が築いた姫路の白鷺城には、塩どころの赤穂、的形にふさわしい立派な塩蔵「塩やぐら」があり、蔵の中は塩が染みこんで、壁や柱が塩を吹いた白壁の美しい姿をいまに遺しています。戦国時代の城の石積技術は、江戸時代の入浜式塩田の塩田を囲んだ石垣の構築に活かされています。              

 

フロイスのみた塩釜

平戸から海上四十里経ったところに幾つかの島が点在した五島列島があります。

昔から島民は、島の産物の魚と塩で生計をたており、肥後と肥前の国々から多数の

船が来て、米や味噌醤油などの食料品と交換に島で採れた塩や塩魚を船に積載して帰っていったといわれます。

信長と親交のあったポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国への帰路、五島列島に立ち寄った際に、島の塩づくりの興味深い様子を描写した『日本史』を著しています。フロイスが塩屋のわらぶき屋根のなかを覗いて見ると、屋根の裏に粘土が塗

り込められていて、それが熱のために土蔵の漆喰のようになっているのに興味をひかれ「その塩屋はわらでおおわれているので、燃えないように内部が粘土で固められている」と語った釜場は、中世の海辺の釜屋が描かれた塩焼きの絵図に似ています。

「ここの塩は、特製の大きなかまどで海水を火で煮つめてつくられる。幾つかの塩釜の持ち主はキリシタンになった島民で、かれらは塩水を入れる大きな容器をかまどに置き、その下から薪を焚いて塩になるまで煮つめている。塩づくりが終わると、しばしば釜は傷み崩れ落ちて、釜から期待した塩の利益がえられなかった」と報告しています。(松田・川崎訳『フロイス日本史』)

 フロイスの母国ポルトガルでは、太陽熱で自然に塩の結晶ができるので、五島の塩水を釜で焚く製塩に強い興味をひかれた様子がうかがえます。 

この記述のなかに“傷み崩れ落ちる釜”とは、竹籠に貝殻の灰を練った粘土を塗り焼き固めた貝釜で、海水を煮つめるのに一日三回繰り返すと、7日ほどで釜が傷んで使えなくなるといわれています。       ↑塩焼きの図 「描かれた塩づくり」赤穂市立歴史博物館

 

戦国美談・義塩

「敵に塩を贈る」この有名な戦国美談は、武田信玄と今川・北条の同盟軍との戦いで、武田勢が敵の塩留めで苦境に立たされたとき、この塩留めを伝え聞いた越後の上杉謙信が、「塩攻めは卑怯なり。争うべきは弓矢にあり、米・塩にあらず」といって、商人に命じて武田信玄の領内に越後の塩を送ったという戦国美談です。

武士の義侠を讃えた義塩の真相は定かではありませんが、江戸時代になってから頼山陽の『日本外史』に書かれたのが始まりです。

この戦は、今川義元が桶狭間の合戦で織田信長に敗れ、上洛の好機とみた武田信玄が今川との同盟を破棄したことから、武田を恐れた今川氏真は、盟友である北条氏真政と謀って、「塩持ち出し」の禁止令をだし、太平洋沿岸から運ばれる「南塩」の供給ルートを封じた塩攻めです。塩浜がない武田領には、塩留めが長引くと、武田の軍勢をはじめ民百姓にいたるまでたちまち塩飢餓の危機に直面するという弱点をついた戦術です。

一説には、日本海側から運ばれる「北塩」を扱っていた糸魚川の塩問屋たちが、後世、かつての謙信の故事を強調することで、塩の独占的な販売を松本藩に強く働きかけたのが、ことの真相だといわれています。糸魚川の塩問屋たちが塩留めの機会に乗じて、越後の塩を甲州武田領に持ち込んで強引に塩市場を奪う、そのやり方がひどかったので、糸魚川の塩問屋の悪評を消そうと戦国美談に仕立て上げたという説もあります。

海に面した糸魚川の塩問屋は、信州の冬を越す漬物の仕込み、塩魚、干し魚など塩合物の需要が多く、古くから信州の市場に強い支配力を持っています。信州への塩・塩魚などの海産物の輸送に運上金を徴収、藩に納入する特権商人でした。

ちなみに、武田信玄の甲斐国が北条氏と今川氏の塩攻めにあって苦しんでいたときに、行徳の浜から甲州街道を通って塩が移入されたと伝えられています。

 

塩の道「千国街道」

日本海の糸魚川地方から姫川渓谷に沿って大町、松本平に至る糸魚川街道は、別名、千国街道とよばれ、古くから日本海の沿岸部と内陸を結んで、山国の人たちに必要な塩や海産物を運ぶ重要な「塩の道」でした。

新潟県の糸魚川地方と長野県を結ぶ、その距離は全長30里(120キロ)。この街道の大町以北約80キロは、幾つも険しい峠険を越えるので山坂道には、牛が運搬に使われ、冬の積雪には、ポッカとよばれる運搬人が背負って運びます。

海から遠く離れた信州の松本藩では、日本海と松本を結ぶ塩の道を通過する塩に、運上塩という名目で、                         

↑善光寺道名所絵図

塩一荷につき、3升2合の塩を徴収しました。さらに塩を運ぶポッカが駄賃でもらう塩を上納すると米が支給されるという「塩手制度」を設けて、松本藩は塩の備蓄に努めていました。

山村の人々は、塩の効いた魚などを買って塩分を補給していたといわれ、野菜を煮るときは塩辛い鮭や鰤の頭を鍋の中にいれて塩味をつけるなど、塩は貴重な調味料でした。

越後の謙信から送られた三千俵の北塩が、雪の山道の中、多くの牛馬の背に積まれて甲府に着いたのは永禄12年(1569)正月14日でした。

貴重な塩が、越後から届けられた人たちは、塩をまず神社に供え、雪の山道のなか、塩を届けてくれた人たちに感謝の気持を表したといわれます。

それ以来、松本平のあちこちで「塩市」が開かれるようになります。塩の荷である俵をかたどった飴を売り出したことから、「飴市」と呼ばれるようになり、この市で買った飴を15日の正月の小豆粥に入れて食べると厄除けとなり、味噌に入れると味が変らないとも言い伝えられています。

塩市で子供たちが“塩じゃ、塩じゃ”と叫びながら塩の紙包みを売り歩く声に、塩を待ち望んでいた山国信濃の人たちの塩への熱い思いが伝わってきます。

糸魚川沿いの新道が開通すると、千国街道は木立に埋もれた古道となって、まるで積もった雪の下に眠るかのように、ひっそりと歴史から消えていきます。

 

5.洗練された江戸の塩

江戸前料理

江戸の街は、武士と町人が同じ人口比率で住む100万人を超える大消費都市です。江戸の朝は、天秤を担いだ振売りの納豆、豆腐、蜆の売りの威勢のよいかけ声で一日が始まります。長屋でおかみさんたちが、井戸端会議をしていると塩や味噌、魚、野菜を売り歩く行商人がやってくる、賑やかな長屋の風景が浮んできます。

江戸には宵越しの金は持たないといった気風があり、商人や職人の独身男性が多かったので、そば屋、天ぷら、鰻屋、めし屋など、屋台や飲食店が賑わい、外食文化が栄えています。

また、田楽、団子、寿司など、何でも一品が四文で気楽に食べられる「四文屋」と呼ばれる屋台が繁盛していました。なかでも文政年間(1818-29)、両国の華屋与兵衛が考案したという江戸湾でとれる海老、穴子、貝、コハダなどを使った即席の「握り寿司」は、せっかちな江戸っ子におおいに受けました。今日の握り寿司に比べて、ズシッと手ごたえのある大きさで、酢は現在の半分の量、塩は三倍とかなり塩のきいた寿司だったようです。

江戸元禄(1688-1703)頃から、大名に召抱えられていた料理人が八百膳などの高級料亭に雇われるようになり、江戸の湾内で獲れる魚介類を調理した江戸前の会席料理が流行し、船宿や料亭が繁盛します。大名や裕福な町人の間では利休の「一汁三菜」のわび・さび仕立の茶会料理が盛んに開かれるようになり、夜になれば、居酒屋、料亭、茶屋が賑わい、食事を楽しむ外食文化の花が咲いた時代です。

一般家庭では、朝昼晩の三食の食習慣が定着し、食卓にご飯にお惣菜、焼き魚、味噌汁、漬物がつく、現代の和食のかたちが出来上ります。

江戸も後期を過ぎると、庶民のあいだにも料理をつくり、食べる楽しみがうまれ、これまで料理人の口伝であった料理法が書かれた『豆腐百珍』などの料理本が流行します。江戸の食文化が成熟するのに合わせて、江戸の料理を支える洗練された塩がうまれてきます。

 

 

江戸前料理と濃口醤油

わが国の味噌・醤油の起源は、古代中国の穀物を塩漬けにした「醤(ひしお)」が源流になっています。鎌倉前期に禅僧、覚心が宋から1254年持ち帰った径山寺味噌の製法を紀州の湯浅の村人に教えたもので、炒った大豆に塩と麹を混ぜ合わせた発酵させた豆味噌の樽にたまった「溜(たまり)」とよばれる液体が醤油の起こりといわれています。

今のかたちの醤油になったのは、麹菌、酵母、乳酸菌などの微生物を利用して醸

造されたものです。室町時代に播州竜野や紀州湯浅などで醸造され、調味料として普及します。江戸には、醤油は大坂から回送され「下り醤油」が主流でしたが、江戸時代の中頃になると、関東の野田、銚子で、地元の行徳塩と関東平野の大豆や小麦を原料にした「濃口醤油」が誕生し、二大産地へと発展しました。

原料の大豆を蒸し、砕いた小麦と種麹を加えて麹菌を繁殖させてから、食塩水と混ぜて樽に仕込み、発酵熟成して「もろみ」をつくります。一年寝かしたもろみを絞ったものが濃口醤油です。

関西の薄口醤油は、種麹の違いと熟成したもろみを甘酒のように糖化して加えるなど、色を薄くした醤油です。煮物、吸物、鍋ものに用いると素材の色と持ち味を活かした料理になりますが、薄口醤油は、濃口醤油の塩分17%よりも2%ほど塩分が濃く、塩味をまろやかにするのにだし汁を使います。    

江戸前料理のはじまりは、濃口醤油を使った鰻のかば焼きだといわれています。江戸の町には、どこへいっても鰻の店を開いていたといわれています。活きのいい魚料理が売りもの江戸前の料亭は賑わい、濃口醤油は江戸っ子の舌に沁みこんだ味覚です。                         

↑醤油醸造の図 大蔵永常『広益考』              

 

江戸の行徳塩

江戸湾沿岸は遠浅のところが多かったので、古くから三浦半島の金沢、川崎の大師、深川、行徳と、江戸湾を囲むように塩浜が点在しています。行徳の塩浜は、江戸湾では最大の塩の生産地でした。

関ヶ原の合戦に勝った徳川家康は、天正18年、江戸入りすると、すぐに飲料水を確保するための神田上水の工事に取りかかり、下総行徳の塩を江戸に運ぶために隅田川から深川を抜けて荒川に通じる小名木川運河の掘削に着手しました。

塩は米と並んで重要な兵糧であることから、行徳塩は幕府から「塩之儀者軍用第一御料地領地一番之宝」と称され、安価な瀬戸内の塩より高価であるが、有事に際して塩を確保できるように、徳川三代にわたって手厚く保護しています。

 ↑「江戸名所図会」   

  行徳の塩浜は、江戸川の河口に広がる三番瀬とよばれる干潟の遠浅の沖に低い堤防で囲んだ入浜式の塩田で、干潮時に天日で乾いた砂を集め、「笊取」とよばれる円形の桶に竹笊を乗せて、砂を積み海水を注いで濃い塩水をつくります。  

行徳は江戸川と江戸湾に挟まれた土地のため、大雨による川の氾濫や高潮によって、度々塩田が潰されたことから、簡易的な笊取法を選んだと思われます。                                         

行徳の塩は、瀬戸内の十州塩田と同じ面積で半分の収穫しかできなかったが、塩づくりの技術が高く、行徳は良質な塩の産地として仙台藩の三陸、石巻などの塩田の手本となっていたほど評判の塩でした

海水を煮詰める煎ごうの釜は、シオブネといい、約2間幅、正方形で、貝殻を焼いて粘土とにがりを混ぜて練り固めた貝釜が使われています。

行徳では石が取れないので、豊富な貝灰を使って貝釜を作るのに手間暇がかかり、そのうえ破損しやすいのが難点でした。釜を焚く薪は、周辺の農家から調達した松葉と小枝で、釜屋の塩職人によって「真塩仕立ての塩」がつくられていました。

行徳塩田でつくられた塩は、小名木川から隅田川を経て日本橋の魚市場へ舟で運ばれ、年貢として江戸城内に納められたあと、残った塩は江戸府内の塩問屋から行商人に売られます。行徳の真塩仕立ての塩は、江戸の人々に大変好評をはくし「笊塩」と呼ばれていました。

しばらく江戸で消費する塩は、行徳塩で賄うことができましたが、やがて人口が増加してくると需要に追いつがなくなり、寛永年間(1624-43)ころから、瀬戸内の十州塩が大量に江戸へ運ばれます。元禄(1688-1703)になると、塩廻船による全国的な塩の流通が行われるようになると、行徳塩は赤穂塩や斉田塩などの「下り塩」に江戸の市場が奪われていき、衰退していきます。                               ↑行徳塩釜の図 「江戸名所図会」

 

 

行徳の古積塩

行徳の塩問屋は安価な瀬戸内の下り塩に江戸の市場を奪われ、深刻な事態に直面、生き残りをかけてにがりと水分を除いて輸送や保存中に塩が溶けて目減りしない「古積塩」を開発しました。

古積塩の製法は、ワラのござを敷きつめた穴に粗塩を入れ、雨風を防ぐわらで屋根をふき、そこに夕顔や南瓜を植えて一年かけてにがりを落として”枯れた塩”にしたものです。赤穂から塩廻船で運ばれてくる差塩は、にがりと水分をたっぷり含んでいたので、塩の生産地から運ばれる間ににがりが溶けて目減りするため、塩の商取引では、船荷の塩が二割の目減りすることが容認されていました。

古積塩は高価であっても目減りしないで保存が効き、さらに軽くて運賃が節約できるので、江戸川、利根川支流の河岸の塩問屋から高く評価され、しだいに北関東に古積塩の市場が広がっていきます。行徳の塩商人は、江戸川・利根川上流の市場の開拓に力を入れ、利根川下流の龍ヶ崎、佐原、銚子にも営業の拠点をもち、行徳の古積塩は、野田の濃口醤油を生みだした原動力になっています。              

大川から利根川の舟運によって支流の上野(群馬県)、下野(栃木県)、信濃(長野県)の河岸に陸揚げされ、そこからさらに奥の鹿沼から今市、会津にまで運ばれています。その後、瀬戸内の安い下り塩をつかって古積塩にして売るようになっていきますが、蓄積された塩を枯らす技術が活かされ「打塩」という人気銘柄に育ちます。                           

 

枯れた塩

枯れた塩が美味しく使い勝手が良い塩になることは、古くから知られており、町の大店や村の裕福な農家には、塩や塩蔵食品を蓄える塩倉がありました。

粗塩はわらで編んだ「叺(かます)」に入れて積み重ねて保管するうち、粗塩のにがりが湿気を吸って溶け、塩の表面を洗いながら、ゆっくり垂れ落ちて下に置かれた苦汁箱に溜まっていきます。梅雨の季節を2、3回越した塩は、二年塩、三年塩と呼び、塩角のない美味しい真塩仕立ての塩になり、「甘塩」ともよばれています。

赤穂から江戸に運ばれる下り塩の大部分が差塩であったので、料亭の板前はサラサラした使い勝手のよい塩にするのに、仕事が終わると竈の火を消して、平らな素焼きの焙烙(ほうろく)に塩を載せて帰ったといわれます。

一般家庭では、差塩を買うと竹の笊に吊るし、溶けたにがりを使って豆腐を作るのに利用します。台所の棚の陶器の壺に入れておくと、しばらくすると塩が湿ってくるので、焙烙(ほうろく)で炒って乾燥させ、サラサラな塩にします。こうした主婦のきめ細かな日常の塩の手入れは、台所仕事のひとつでした。焙烙で「煎り塩」にして胡麻や紫蘇を混ぜ合わせた胡麻塩、紫蘇塩のふりかけが食卓を飾ります。焼塩は現代のふりかけのルーツだといわれています。

江戸落語に、塩の棒手振りが「焼き塩~焼き塩~」と声かけて売り歩く話がでてくることから、サラサラした焼き塩は江戸の人気商品であったと想われます。

 

赤穂の塩

江戸の初期、海岸沿いの諸国が財政を賄うために、競って塩田開発に力を注ぐなかで、徳川三代将軍・家光(1645)の命で笠間から播州赤穂に移封された浅野家は、姫路の大塩などから製塩技術者を集めて大規模な入浜式塩田を開発します。

それは沖に石垣の堤防を築いて潮の取り入れ口をつくり、碁盤の目のように溝が掘られ、そこに海水を導き、毛細管現象によって砂の表面に海水を浸透させる、天日で乾燥させ、砂についた塩を溶かし濃縮塩水を採取する画期的な採鹹方法です。

瀬戸内海沿岸は、雨が少なく温暖な気候とデルタの地形など、製塩の立地条件に恵まれ、瀬戸内沿岸の諸藩は競って塩田開発に力を注いで藩の財源にしました。

入浜式塩田の石垣の堤防には戦国時代の城づくりの土木工事の技術が生かされています。大石の隙間に小石をはめ込む石積みの技法は、渡来人の石工集団であった近江の穴太衆が瀬戸内の花崗岩を使って築いています。また潮の取水と排水には、南蛮人の渡来で伝えられた南蛮樋を取り入れています。

瀬戸内海の入浜塩田では、「一軒前」という入浜塩田の経営規模が確立されています。一戸の釜屋に付属する塩田の区画は一定しており、一軒前の面積は平均一町

五反の広さで、10人前後の浜人が釜焚きと入浜塩田の作業を分業するひとつの単位になっています。

瀬戸内の長門、安芸、備前、備後、播磨、備中、安芸、阿波、讃岐、伊予の十ケ国の塩は「十州塩田」と呼ばれ、全国に流通、その価格の安さと品質で地場の塩を圧倒し、国内の塩の生産は、しだいに瀬戸内海の十州塩田に集約されていきます。

瀬戸内の塩が塩廻船で諸国に移出されるようになると、大坂・京都の都市には主に真塩が運ばれ、江戸や東北地方には差塩が運ばれます。全国の生産高500万石(約50万トン)のうち、その九割の450石を占めていたといわれます。

赤穂の塩は藩の厳しい品質管理がなされ、全国的に赤穂塩、斉田塩は、信頼のブランドを築きました。

余談ですが、江戸元禄のころに赤穂の差塩が江戸の市場に進出したきっかけは、将軍綱吉が毎朝、歯磨きに使う塩に赤穂藩が焼塩を献上したことから、またたくまに江戸庶民のあいだで「将軍様が使われている赤穂塩」と評判になり、地元の行徳塩をおさえ、江戸における塩の販売に成功したといわれています。

*赤穂塩田 赤穂市立歴史博物館蔵

松葉焚き石釜

塩の結晶をつくる塩釜の歴史は、塩田に先行しており、太平洋沿岸では、一般的に貝釜、土釜に代わって鉄釜に移行しましたが、瀬戸内海沿岸では、石釜と鉄釜の二つの塩釜が併用されていました。

江戸期、寛文期(1661)に九州で始まった石炭焚きが瀬戸内に伝播され、赤穂では25%の燃料費が節減しましたが、その利益は高騰する小作料で消えてしまい、加えて薪の燃料で生計を立てていた人たちの反発にあって石炭の導入はあまり進まなかったといわれます。近世の瀬戸内沿岸の塩の結晶を採取する釜は、石釜が主流となり、石炭焚きの鉄釜はその代用品となっていきます。

石釜が主流になった背景には、瀬戸内の塩田近くに石釜をつくるのに適した花崗岩の割石が豊富に産出され、また花崗岩の風化した細かい砂は毛細管現象を高める最良の砂であったことなど、石釜と塩田づくりの環境が揃っていたからです。

石釜は、板状の花崗岩を貝灰、松葉灰をにがりで練った粘土を、タイル張りのように継ぎ合せて一枚の釜底を作り、周りは粘土で釜縁をつけ、底に吊り鉄を埋め、その表と裏を焼き固めて、吊り鉄を上の渡りに縄で結び吊釜としたものです。

それを焚く竈は、土間をV字型に掘りさげ、松葉や薪を使って釜を焚きます。煙道には余熱を利用して塩水を温める釜が取り付けられています。石釜は塩焚きに使用すると、一ヶ月くらいで築き替えられます赤穂の塩は、入浜式塩田と石釜を組み合わせた製塩方法によって、白くきめの細かな良質な塩の大量生産が確立されました。土鍋でコトコトと煮たお粥が美味しいように、石釜でじっくりと焚かれた塩はふんわりとし、塩角のない甘みがある塩です。

俳人芭蕉の句に「うたがふなうしおの華も浦の春」と刻まれた潮塚があります。芭蕉は若い頃、伊勢安濃津藩に仕えた料理人「御台所御用人」であったといわれ、石釜を焚く炎のなかで、液表に花びらのような塩の結晶が浮かんでくるのを見て、芭蕉は、塩の花に春を見たのでしょうか。      

↑石釜 赤穂市立歴史博物館絵葉書

 

□江戸時代の塩の値段

重く嵩張る塩の値段は、塩産地から運ばれる距離に比例して高くなります。塩廻船が発達した近世における塩の値段は、瀬戸内では塩一升の値段が5,6文、東海・江戸まで運ばれると約10文、三陸海岸で約15文、これが内陸部に入ると、2里(8km)で二倍、三里で三倍に値上がりし、米沢藩で120文、最高は一の関で一升300文の値がついたといわれます。*塩の値段『塩の日本史』廣山堯道著

 

石釜のルーツは福建の晒塩

 温帯モンスーン気候の高温多湿な東アジアの中国と日本は、天日塩をつくる環境に恵まれていないため、濃縮塩水をつくり、釜で焚くという共通点があります。

南宋時代、中国沿岸の都市化で塩の需要が増えるにしたがい、製塩に使う大量な薪などの燃料不足が限界に達し、周辺の森の木々が伐採されて禿山になってしまう危機に直面しました。

この問題を解決しようと、薪を使わないで太陽と風の力で晒して塩の結晶をつくる「晒塩法」とよばれる天日塩づくりが中国南部の福建省の塩浜で開発されました。

華北から江南に移住した漢民族から、黄河流域の運城解地の天日塩田の技術が伝播されたといわれます。

福建人が開発した天日塩の初期の製作の方法が宋代の「熬波図」に遺されています。はじめに平らな石を組み合わせて底辺をつくる「排湊盤面」、つぎに石片を泥で繋ぐ「装泥伴縫」の作業が描かれています。

 福建の蒸発池は、その後改良が重ねられ、沼井に濃縮された海水を溜めて、その濃縮塩水を瓦や陶磁器の破片を敷きつめた晒塩地(蒸発池)に引き入れ、太陽と陶磁器の遠赤外線の熱によって塩の結晶をつくる現在のかたちが完成しました。この結晶池の製作手順をみると、江戸時代に登場した花崗岩でつくる石釜を連想します。石釜は、瀬戸内海に産出する花崗岩を平らな石片にし、漆喰で繋ぎ合わせた蒸発釜をつくり、その底を焼き固めて平らの塩釜にしたものです。 

↑装泥伴縫図 「天工開物」 

 

福建の天日塩田と異なるは、わが国では石釜を吊りあげて、かまどの下から薪を焚いて加熱する発想ですが、いずれも塩の結晶化に使われ、わが国の石釜のルーツだと推測します。

明の時代になると、中国沿岸の各地の地形や気候に適した天日塩田が発展していきますが、晒塩法が普及した背景には、福建人が沿海貿易にいちはやく乗り出し、その幅広い活動が深く関係しています。

瀬戸内海沿岸で発達した入浜式塩田と石釜の製塩法は、堺の唐僧、行基が中国から伝えたといわれ、琉球と福建との親密な交流が、わが国の塩釜の技術開発に大きく影響したと考えられます。                              

 

江戸の壺焼塩

近年、江戸城をはじめ大名屋敷、徳川家ゆかりの増上寺をはじめ、江戸の高級料亭などの江戸時代の遺跡から、厚手の湯飲みの形をした素焼きの壺が大量に発掘されています。内側がピンク色に塩焼けしており、壺の中に塩を詰めて焼いたことが考古学によって解き明かされ、和製の食卓塩として使われた「焼塩壺」であることが解明されました。

過去には京都御所をはじめ、松本、岡崎、赤穂、岡山、小倉、熊本城、鹿児島の鶴丸城などの大名の城跡から発掘されており、長崎ではオランダ商館の出島にも食卓塩として船に持ち込まれていたという記録が残っています。

天文年間(1532-54年)に京都の洛北出身の藤左衛門が、泉堺で壷焼塩を始めたと伝えられ、その焼塩壷には、「堺湊」の名が刻まれており、堺湊村で生産されていたことが判明しています。

壷焼塩の製法は、先ず粗塩を石臼の中にいれて粘りが出るほど細かく粉砕し、これを焼塩壷に入れ、天井のない窯につめて二日間以上焼き上げます。

第一日目は“あぶり”と呼ぶ松の割り木で焼き、二日目からが本焼きで、15時間くらい焼き続けると、焼き始めは、煙で壷が真っ黒になり、しだいに炎が赤くなり、やがてピンク色に変わってきます。窯の炎によって、粗塩に含まれた苦味が飛び、塩角が取れたまろやかな塩味の焼塩が出来上がります。

塩は、焼くと800度で液化するので、ぎりぎりの高温で焼いて仕上げる壷焼塩は、高度な技術と経験を必要とされ、江戸時代の塩職人の究極の塩といえます。

“雪の如く白い粒状の焼塩”と賞賛された壷焼塩は、その繊細な塩味をめでた京の女院御所より承応3年(1654)、「天下一」の称号を与えられ、「伊織」の名を鷹司殿より賜っており、これにともなって焼塩壷の刻印は、「みなと藤左衛門」から「天下一御壷塩師堺湊伊織」へと変化していきます。

上流階級の間で茶懐石につかわれた壷焼塩は、その淡白な塩味が京料理のかたちをつくったともいわれています。

江戸末期、開国をせまる黒船が到来。当時の瓦版に江戸幕府がペリー一行を横浜でもてなしている宴会風景が載っています。記録によると、献立は日本式の本膳料理で、魚貝の吸い物、刺身に始まって、二汁五采の料理が供されていますが、その挿絵の二の膳に鯛と焼塩壷が描かれており、献立には「かけ塩鯛」と記されています。  

鯛の塩焼きに壷焼塩が使われた一つの理由は、身の厚い鯛は食べ進むと塩味が減少するので、そのために食卓塩として使われたといわれています。

←武州横浜於応接所饗応の瓦版 横浜中央図書館所蔵

 

忠臣蔵余話

元禄十五年(1702)十二月十四日、大石内蔵助を中心とした赤穂浪士、四十七名が、本所松坂町の吉良邸に討ち入り、吉良上野介の首をとり、主君の浅野内匠頭の仇討ちを果たします。この元禄の世を騒がせた事件が、のちに歌舞伎で上演されたものが、いわゆる『仮名手本忠臣蔵』です。浪士たちの主君の仇討が武士道の鏡と美化されて江戸の庶民に熱狂的な支持をうけて大ヒットしました。

この不祥事は、京都朝廷の勅使接待役になった赤穂藩主浅野内匠頭が、松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだことに端を発したもので、浅野内匠頭は切腹、赤穂藩は取り潰しとなります。上野介にはなんのお咎めもなく、家老の大石内蔵助は、幕府に喧嘩両成敗を訴えたが、お家再興が認められませんでした。

このため武士の意地を示すために、主君の仇討におよんだものですが、ことの始まりは、三河湾に製塩地をもっていた吉良家が、製塩の進んだ赤穂に新しい技術の伝授を望んだところ、赤穂藩から、「これは秘法だから藩の掟で教えられない」と断わったとされ、さらに吉良の者が赤穂の塩田をスパイしようとして捕まり、処刑されたともいわれ、このことが原因で上野介が、その意趣返しに接待の作法にうとい若い内匠頭をはずかしめたというのが定説になっています。

しかし、『日本人の歴史』を著した国学院大学の樋口清之教授によれば、松の廊下で吉良に切りつけたときの上野介がいった「このほどの恨み覚えたるか」の言葉のほんとうの意味は、赤穂の塩が、三河から尾張にかけて塩の商いを伸ばそうとしたのを、吉良の饗庭塩に市場を奪回された恨みからだという説を述べています。

吉良上野介は、地元の三河吉良では、治水工事と塩田開発で領地を豊かなにした名君として慕われています。三河湾の塩田から「饗庭塩(あいばえん)」という良質の真塩を産出しており、三河から尾張、美濃一円の市場をもっていました。赤穂の塩の真塩は、主に京都、大坂の都市部に運ばれ、江戸や地方には、にがりの多い粗悪な差塩が売られていたために、地元の饗庭塩に市場を奪回されたのが忠臣蔵の真相だとする塩業史の興味深い視点があります。

 

6.明治の塩

  1. 明治維新の塩事情

明治維新(1868)、アジアにおける欧米列強の植民地支配が強まるなか、新政府は専ら国内産業の保護育成と富国強兵にちからを注ぎます。鉄道・鉱山・電信・造船など国内のインフラ事業、軍事工業や繊維工業に重点が置かれていました。

新政府の塩業対策は、明治2年から塩税を金納に統一したくらいで、明治の終わりころに塩の専売制度が始まるまで、江戸時代の商慣習が引き継がれていました。

しかし、幕藩体制が崩壊し、維新で藩の塩専売が廃止され、防潮堤の修繕や燃料の補助など、藩の支援を失った塩浜は、容量不足や粗製濫造の塩がはびこり、塩価が低下し、塩の投機化がおこり、塩業界の不況と混迷が続いていました。

一方、藩の権力に頼っていた塩田地主や塩問屋たちは、塩田の労働者や塩廻船の船主の不満を解消するために、「浜人集議所」をつくり、共同で塩浜の運営にのりだし、塩田作業を計画的に休浜し、価格維持を図っていました。

塩の種類は、真塩(塩分85%前後の上質塩)、差塩(塩分70%の粗悪塩)、焼塩(真塩を焼いた高級塩)の三種類に分れ、主な需要は、家庭塩、味噌醤油、漬物、水産物加工に使われ、塩の生産量の95%が食用塩で占められています。

残りの5%は農業、皮革、鉱業、染料、窯業等、家内工業用に使われています。

瀬戸内海の十州塩田の生産量は、全国需要470万石のうち、約400万石を供給するほど、製塩業の集約化が進んでいました。

旧態依然の塩業界も、明治の文明開化の波が静かに押し寄せていました。それは西欧の近代産業の積極的な導入にともなって、海外から化学工業用の原料塩の輸入が始まり、国内塩業の構造的な変革が迫られていました。

「明治の塩」の前半は、塩の近代化が本格的にスタートする明治38年の専売制度までの塩業の近代化が始動したときのエピソードを拾ってみました。

 

幕末に始まる西洋式製塩

ぺリー来航(1853)が動機となって、幕府は日本海軍の創設に備えて長崎にオランダ教師団による長崎海軍伝習所を開設しました。ここに若い藩士たちがあつまり、海軍に必要な航海術や機関学にとどまらないで、舎密学(化学)、医学、天文学など、蘭学を通してさまざまな西洋の近代科学を学んでいます。

そのひとつ、西洋式製塩は、幕末の長崎のオランダ商館で医師をしていたシーボルトから伝播されたといわれており、「枝状架製塩」、「淋乾法」ともよばれ、細い枝を積み上げた塔の上から、ポンプで海水を汲み上げて霧状に振りかけて濃縮塩水をつくり、天日蒸発させて塩の結晶を採取する仕組みです。天日塩田の北限は、フランスの大西洋沿岸のゲランド塩田とされ、枝状架製塩は、塩田での自然蒸発ができないヨーロッパの内陸部のドイツで1559年頃に考案されたものです。

わが国で初めて西洋式製塩を試みたのは、薩摩藩主の斉彬といわれ、製塩自給を目標に製塩法を翻訳させて、安政二年(1855)に実験を始めましたが、翌年に亡くなり中止になってしまいます。

経済的な自立を求めて旧藩の士族たちが塩業を興す燃料を使わない西洋式製塩を試みる士族がでてきます。その後、長崎海軍伝習所で学んだ藩士たちが中心になって、南部藩、鳥取藩、仙台藩などで実験が試みられます。海水を人力や牛車によってポンプで海水を汲み上げ、小屋の屋根や細い竹の塔に流して濃縮するなど、様々な蒸発法が試みられましたが、成功しないままに終わっています。

失敗の理由は、揚水ポンプの技術と動力源の問題があったこと、明治になり藩の没落で、それを受け継ぐ事業家も 現れなかったことがあげられます。 

↑写真 ドイツの枝状架製                                       

 

天日塩に挑戦した二人の男

長崎海軍伝習所の第一期生で測量、航海術を学んだ小野友五郎は、万延元年(1860)、威臨丸の航海長として渡米、汽車、海軍工廠、天文台、病院など各地を視察しています。彼は米国で使われていた食卓塩が、日本とは比較できないほど白く、品質に優れているのに感動、それが天日塩であることを知り、のちに彼は「精良な食塩

は天日製塩のみでつくられる」という考えを持ち続けたといわれます。

幕臣となり、勘定奉行となった彼は、長州との戦に敗れて投獄されましたが、政府は彼の豊富な経験と才能を惜しみ、釈放したのち民部省の北海道の鉄道測量に派遣します。明治2年(1869)西洋式製塩の事業を始めようと深川に移住し、行徳の塩浜で枝条架製塩の実験を始めます。明治10年に退官し、同じ東京湾に面した大堀に製塩所を建設、五年の歳月をかけて枝状架製塩に成功します。この事業に旧笠間藩士が競って秩禄処分金を投資し、君津塩田を借り受けて官許の製塩事業を興します。明治14年の大火災で深川の屋敷を消失しましたが、明治16年に製塩場を再建、その年に上野で開かれ第二回勧業博覧会に友五郎は、西洋式製塩で作った塩を出品したところ、審査員から「色純白にして雪をあざむき、いかなる貴賓の饗宴にだしても恥ずることなし」と評され褒賞を受けています。このとき友五郎は米国向けの輸出用の鯖の缶詰用に、この塩を使ってほしいとすべてを寄贈しています。*写真 小野友五郎慶応3年第二回渡米ワシントンで撮影               

次に友五郎が挑戦したのは、薪を使って焚くのではなく、蒸発池・結晶池による天日塩の試みでした。瀬戸内の三田尻浜に試験場を設けて、実験を始めますが、上手くいかず、試行錯誤を繰り返すうちに、在来の入浜式塩田と浅い結晶池の二つの製塩工程が日本の気候に適した天日塩づくりだという結論に至ります。明治30年(1897)、愛媛県多喜浜において実験した方法は、深さ約1.3cmの結晶池に入れするもので、降雨があった場合はすだれで覆い、塩水が薄まるのを防ぐ工夫がなされています。  ↑小野友五郎の枝条架 (福島県勧業課所収)

八十歳をこえた晩年の友五郎は、明治31年8月、播州大塩村に招かれて直接製塩の指導にあたりますが、これを最後に天日製塩に情熱を注いだ人生 を終えます。     

小野友五郎が大堀で枝条架を建設していたころ、東京深川で約20町の八衛門新田を借りて米国式の天日製塩の実験をしていたひとりの男がいました。田中鶴吉は、

幕臣の子として江戸に生まれ、アメリカ商船のボーイとなり渡米、明治5年(1872)年に製塩法を学ぶためサンフランシスコ湾のロック・アイ ランドのユニオン・パシフィック製塩会社で天日製塩に従事していました。当時の米国のニューヨーク州のシラキュースで行われていた製塩は、塩泉から採取した塩水を木製の蒸発槽に入れ、天日蒸発させて塩の結晶を採取する天日塩田法です。

明治12年に日本に帰国し、深川に天日塩田を建築し、これから試験操業するというときに暴風に襲われ塩田が破壊してしまいます。                         ↑米国のニューヨーク州のシラキュース天日塩

大堀の友五郎を訪ねて相談しますが、友五郎自身も同様に災害を受けており、支援を得ることができず、その後、各地を巡って天日製塩を説いて出資者を募りますが、成果はなく、明治14年に友五郎のすすめで亜熱帯の小笠原諸島の父島に移住して奥村湾で一万坪の天日塩田を試みます。                       ↑

小笠原諸島は、サンフランシスコと比べて降雨量が多いため、米国式の天日塩の製塩試験は失敗に終わります。明治19年、彼は失意のうちにふたたび米国に渡って帰らぬ人となりました。        

 

塩業を陰で支えた榎本武揚

榎本武揚は江戸下谷御徒町に生まれ育ち、父親の榎本円兵衛は伊能忠敬に入門し天文学、測量術を学び、幕府天文方を務めた幕臣です。武揚は、14歳のときに昌平坂学問所に入学、18歳に江戸川太郎塾でオランダ語を学んだのち、中浜万次郎から英語を学び、長崎海軍伝習所に幕府の留学生として入ります。

航海術、機関学のほかに、オランダ医師ポンぺより舎密学(化学)を学び、27歳のとき、幕府留学生としてオランダに派遣され、欧州への船旅の中で医師のエレセンから元素がナトリウムとカリウムから成り立つという塩の科学を聞いて驚いた様子を『渡蘭日記』に書き残しています。

1864年、イギリスのリバプール、ウーリッチの製塩所、造船所、鉄鋼、製塩、鉱山など、産業革命の発祥地を精力的に視察、このとき武揚は化学を基礎とした殖産技術の開発を志し、塩の大国、オランダを去る時、科学の師スチュルテルハイムに宛てた手紙には、「化学の知識は各種の学問や国民の繁栄を図る上で真に欠くべからざるものである。私は帰朝の暁にはこれをわが国に紹介して日本の物質的利益の増進を図る責任を取るつもりである」とオランダ語で書いています。

しかし、帰朝してもわが国の国情は、彼の夢をかなえることもなく、武揚は幕府海軍の副総裁として、薩長との戦い明け暮れ、五稜郭の戦いへと向かいます。

明治2年(1869)官軍に降伏した榎本武揚は、江戸に送られて投獄されましたが、三年後に黒田清輝らの尽力で放免され、北海道開拓使として石炭、石油などの資源調査と開発という新たな人生が始まります。

その後の半生の伝記には、塩業の表舞台に彼の名前は出てきませんが、明治の塩業に関わる重要な節目に、いつも榎本武揚の存在が見え隠れしています。

たとえば、明治12年、明治初年塩業調査報告書をつくった和田維四郎とともに地質学会を創設、殖産興業の発展を期した臨時博覧会では、製鉄、機械、化学工業に並んで、初めて塩が展示されます。このとき、農商務大臣を兼ねて、博覧会の事務総裁として参画しています。

明治31年(1898)、63歳にして、工業化学会を創立(現在の日本化学会)、初代会長に就任し、塩業発展の裏方として貴重な存在で、西欧の知識・技術をもって明治の近代化に奔走したひとりの科学者の姿が浮かび上がってきます。

 

塩商人の開発した再製塩

古積塩で知られた行徳の塩浜は、明治維新になるとこれまでの幕府の保護政策が失われ、苦境に立たされます。疲弊する行徳の塩業の再興に心を砕いた塩の仲買人が地元塩業を救うために発案したのが「溶解・再製塩」です。

明治になって鎖国が解かれて海外の塩が登場した明治初年、横浜から中国、ベトナムから天日塩を買い入れ、淡水に溶してゴミや汚れなどの夾雑物を取り除き、釜で焚いてつくります。東京では、荷崩れした塩や汚れたゴミ塩を溶かして煮詰めたものを「煮返し塩」とよび、廃物利用として作られていたので、すでに輸入塩の再製塩をつくる技術の十分な下地があったのです。

瀬戸内から関東地方に運ばれる「下り塩」の多くは、にがりの多い赤穂塩、斉田塩の差塩であったので、純白でにがりの少ない再製塩は、“真塩仕立ての塩”として、東京市民に好評を得ました。

しかし、瀬戸内の十州塩田の生産過剰が続いたため、塩業不況に陥り、明治3年に行徳で生まれた再製塩は、10年も経たないうちに衰退の道を歩み始めます。

とくに台湾の天日塩は、国内塩に比べ安く良質な塩だったので、醤油・味噌、麺、水産業などの大口需要先が積極的に輸入したからです。

日清戦争が終わって、海外塩の輸入が急増したころ、台湾塩を一手に移入していた半田の小栗商店が、明治36年に神戸に、日本食塩コークス株式会社を設立し、台湾の天日塩を淡水で溶かし、コークスの余熱を利用して釜を炊いて再製塩の大量生産に成功、東京・横浜の市場で本格的に流通を開始します。

のちにイオン交換膜製塩に転換したとき、専売法で国内の海水を使うことを禁止されていたため、塩田復活を望んだ製塩業者は輸入天日塩を淡水で溶かし、平釜で焚く再製塩を専売局に申請。それが認可されたのは、明治時代の再製塩の先例があったからだと思われます。

 

明治の産業革命は大阪から

明治維新の近代化は、欧米の近代産業を導入した官営の模範工場と殖産振興によって芽生えます。明治元年(1868)大阪に造幣局が設立され、貨幣の鋳造を開始するにあたり、その材料となる硫酸を自給するために創業した硫酸工場が、我が国の化学工業のはじまりで、大阪は明治の産業革命の発祥地となっています。

明治3年京都に舎密局を設けて、ドイツ招聘技師のワグネルの指導で硝子、陶器、洋式染色、石鹸などの製造業を興します。ワグネルは、第一回内国勧業博覧会で化学工業の母胎となる硫酸、ソーダなどの酸・アルカリ工業の重要性を説いています。  

明治5年(1872)英国人ローランド・フインチの技術指導のもとで本格的に硫酸事業が開始され、明治14年(1881)からルブラン法が導入され、ソーダ灰、苛性ソーダ、重曹、芒硝などのアルカリ製品や塩酸を製造するに至っています。

明治18年(1885)に硫酸製造所は民間に払い下げられ、大坂硫曹製造会社に継承しました。同年、東京王子において印刷局の紙幣、公債証書の印刷が稼働すると、紙を漂白するために、ルブラン法が採用されて晒粉の製造が始まります。

このように、明治初年の造幣局の創立から一連の化学工業の誕生は、商業都市大阪が工業都市に発展していく大きな推進力となっています。

わが国の化学工業の発展に、唯一のハンデになったのは、海外の塩に比べて塩化ナトリウムの純度が低い塩だったことです。化学工業の原料塩に、にがりは不純物となります。明治初期のわが国でつくられた平釜焚きの海水塩は、どんな上質な塩でも水分と苦汁(マグネシウム、カルシウム、カリウム等)を含んでいるためにアンモニア・ソーダの原料に使うと、結晶が沈殿し、これが内部に付着して機械装置の破損や熱効率が低下する原因となるからです。

そのため米国、英国、ドイツなどからの輸入塩で補っていましたが、ソーダ工業の発展に伴って原料塩の需要が増加し、安価で良質な外国塩の輸入が急増したため、コストの高い国内の製塩業は危機に直面します。

同じ頃、砂糖産業が海外からの安価な砂糖の輸入によって衰微、政府は砂糖産業の轍を踏まないように製塩技術の向上と塩業の育成にむけた施策を実施します。

明治10年と14年の内国勧業博覧会の開催で塩産業の振興を図る、はじめて塩の品評会や製塩技術が紹介されています。明治32年に政府は農商務省の技師、奥建蔵を欧米の塩業視察に派遣し、彼の報告に基づいて、燃料効率の優れたカワナ式蒸気装置とシラキュース式天日塩製法を導入し、瀬戸内で試験が行われます。これを機にわが国の塩の近代化が本格的にスタートしました。

化学工業が発展するにしたがって、塩の価値観が”食べる塩”から、化学工業の原料塩に移り変わり、塩の品質は限りなく塩化ナトリウムの純度の高い塩が求められるようになってきました。日露戦争、第一次世界大戦と続く中で、化学工業の近代化が急務になり、その原料となる塩は「産業の糧」として国策に組み込まれていきます。

 

塩業の恩人オスカー・コルシェルト

わが国の産業革命が萌芽した明治初期には「お雇い外国人」が、日本の工業の近代化に数々の貢献をしています。そうした多くの外国人の中に、近代日本塩業の技術革新に大きな影響を与えたひとりのドイツ人技師がいます。その名は、オスカー・コルシェルト。ドイツでビール技師であった彼は、明治9年に東京大学医学部に雇われ、数学と薬学を教えていましたが、明治13年、コルシェッルトを含め4人のドイツ人技師が内務省の地質課に招聘されます。

農商務省の地質調査員としてわが国の塩業の実態調査と塩業の改良の方策の検討を、オスカー・コルシェルトに委託します。ヨーロッパでは塩業は地質学に属しているからです。各地の塩田を精力的に調査し、地質調査にとどまらず、製塩法の試作実験も行っています。このときに                                       オスカー・コルシェルトは、東京湾で西洋式製塩をしている小野友五郎を訪ねています。その成果は『日本海塩製造論』として報告され、わが国の製塩の設備、経営を詳細に調査分析し、日本の塩業の改良を提言しています。     ↑オスカー・コルシェルト

江戸時代から旧態依然と続いている製塩法である、海水濃縮設備の「沼井」を地下に設置して塩田を広げ、そしと燃料の効率を良くするために傾斜した塩田に砂を敷いて天日蒸発をうながし、降雨の損失を防ぐのに枝条架蒸発を採用する、洋式の塩釜の導入と塩設備の改良点を具体的に挙げています。

その他、日本の塩業界の改善策として、全国の塩業者で構成する「日本塩業会社」の設立構想や、大消費地に塩の保管庫を設けて安定供給を図るなど、広い範囲にわたった企画を提案しています。地質調査研究所ではこれらの提言を受けて、各地の塩浜に気象観測の計器を設置し、三田尻浜で天日塩の実験が実施されます。

彼が提言した日本塩業会社構想は、十州塩田の塩業組合として実現し、国内の塩業の改善が進められていきます。のちに塩の専売制度が布かれると、全国に保管庫の設置やアメリカの蒸発釜の導入、昭和に枝条架流下式の塩田の実現など、オスカー・コルシェルトの数々の提言がわが国の塩の近代化に向けた専売の施策に生かされています。                         

増田 幸右 について

1964-1968 武蔵野美術大学 グラフィックデザイン科卒業 1968-1994 広告代理店電通入社 クリエーティブ・ディレクター 2002-2004 立教大学大学院 修士課程 2003-2008 (株)GN21 経営コンサルタント 2007-2010 浦安図書館ボランティアBCU会員 2010-2014 企業ブランドアドバイザー 2006-2014 日本海水学会員
カテゴリー: 第2章 美味しい塩の系譜 パーマリンク

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