塩の近代化

1.塩の専売制度

安価な輸入塩の脅威

明治27、28年(1894~1895)の日清戦争の影響を受け国内の諸物価、人件費が高騰し、5000円程度であった塩の相場が、29年には5万円に高騰、翌年には戦争前の20倍に値上がりして塩業界は困難に直面します。

そのうえ、戦後に植民地になった台湾や関東州塩、青島塩などから移入される安価な塩によって、国内の製塩業は大打撃をうけます。政府は、いかに国内塩と輸入塩の価格バランスをとるかに苦慮し、安価な台湾塩の輸入を支持する意見と、塩は国家存立の必需品であるから国内製塩を保護すべきだという意見が対立します。

国内塩業をいかにすべきか、論争が繰り広げられるなか、塩業者の間から政府による塩の買い上げと安価な輸入塩の価格調整を実施する塩の専売制の実現を望む声が次第に強まってきます。

ついに良質で安価な輸入塩との競争に勝てない不安に襲われていた十州塩田の製塩業者は、政府に塩価の調整と国内製塩の保護育成を政府に要請します。

製塩業者は塩業保護の基盤をつくる専売制度に賛成であったが、塩問屋、小売店などは、専売制で販売ルートから締め出され、専売の配給機能になってしまうため、商売の自由を失うことを恐れ、専売制に反対の声をあげました。

政府の大蔵省は、財源として塩の税制を求め、農商務省は、専売制として国内塩業の保護を図ることを主張、「塩専売制か消費税か」専売の論争が続きます。

 

塩の専売制度の発足

明治27年日露戦争が始まり、明治38年に日露戦争の戦費調達を名目に塩の消費税案が国会に提出されます。はじめは否決されましたが、戦局の拡大にともなって戦費が増大し、明治37年(1904)12月、第21回の議会において、日露戦争の軍事費の調達に塩の収益をあてる塩専売法が国会で可決され、翌年の6月1日、専売制度の施行が公布されます。

塩の専売が施行された翌年、悪天候で塩は凶作に見舞われ、塩不足で塩の価格

が著しく暴騰し、投機的な買い付けが起こりました。さらに戦争の終結にともない専売制の廃止を唱える声があがり、はやくも専売制は暗礁に乗り上げます。

専売法が施行された当初は、政府が現地で塩の一手買い上げと売り渡しを行い、その後の流通はすべて塩商人に任せていましたが、内陸部や離島への塩の安定供給に支障が生じてきたため、明治41年(1908)7月、塩の安定供給のために専売法を改正して、全国の主要な塩産地に塩販売官署を設置し、生産地から消費地までの塩の回送費用を官費で負担することになりました。

各販売官署に塩を在庫することによって、需要の調整ができるようになり、塩の配給機能は、政府が指定した全国の塩元売捌人と小売販売店に限って販売を認可し、地域の商圏を保障するなど、流通体制の改善に力を注ぎます。

そして効率の悪い不良塩田を廃して、生産力の高い瀬戸内海沿岸の塩田に集約します。こうした流通の合理化と塩田整備を積極的に施行した結果、念願の全国均一の価格と塩の安定供給が実現したのです。

 

収益専売から公益専売へ

大正時代(1912)に入ってすぐに第一次世界大戦(1914~1918)が勃発、国内は好景気に沸きましたが、その影響によって物価、賃金が著しく高騰、塩の生産コストの上昇をまねき、塩の買上げ価格の上昇と回送費の値上げが響いて、専売の収益は予定の1千万円から2百万円と大幅に減少し、食用塩の政府の買い上げを維持することが困難な事態に直面します。

政府は、塩は生活必需品のため、国民への塩の安定供給と均一の低価格を維持しようと、塩の流通改善、台湾からの塩の輸入に力を注きましたが、解決することもなく、ふたたび専売制度の是非が論議の的となりました。

大正8年(1919)、政府は「一朝有事」の際の塩の重要性を掲げて専売制の存続の意志を表明、従来の収益主義を捨てて、国内塩業の育成を図り、塩の価格をできるだけ安く、安定供給することを主眼とした「公益専売」として再出発します。

第一次世界大戦後、ソーダ工業の原料塩の需要が飛躍的に増大し、塩は化学工業の「産業の糧」として国の重要な戦略物資の性格が色濃くなってきました。

ソーダ工業用の原料塩は、高純度、低価格であることが最優先し、国内塩は、純度が低くソーダ工業用には適さないため、純度の高いスペイン産をはじめ、紅海沿岸、インドネシア、台湾からの輸入塩に依存していました。

大正6年(1917)政府は、ソーダ製造業者が商社を通して海外から原塩を直接買い付けることができる「自己輸入」を許可します。それ以来、ソーダ工業用の原塩は専売価格に関係なく安い価格で海外から輸入できるようになりました。

 

塩の品質基準は純度

専売の塩の買い入れ基準は、それまでの真塩と差塩といった白さや味、手触り、容積などが塩の品質評価の基準であったが、主観的な判断を一切排除し、塩の評価基準を塩化ナトリウムの純度、塩の重量など、客観的に評価できるように、塩の買入れ価格をつぎの五つの等級に分けられるようになりました。

一等塩は塩化ナトリウムの純度90%以上、二等塩は85%以上、三等塩は80%以上、四等塩五等塩70%以上の五等級に分けられ、当時の国内の塩は純度が低く、平均純度が約75%前後という水準で、二等塩が消費量の半分を占めています。

あい続く戦争や近代工業の発展でソーダ工業用の原料塩のニーズは日増しに増大していくにしたがい、塩化ナトリウムの純度が塩の評価基準に変わってきました。

気候風土、熱エネルギー資源に恵まれない、わが国の塩づくりは、高品質と低コストの塩を大量生産する経済合理性を優先し、ひたむきに邁進していきます。そこには食用塩と工業塩を品質で区別する発想に乏しく、経済効率を第一にした塩の近代化の道をたどってきました。

昭和になってから海水から電気解析して純度99.9%の塩化ナトリュウムを抽出する、イオン交換膜方式という日本独自の製塩法を生みだした底流には、純度主義が専売の遺伝子となって引き継がれています

 

□専売の近代化

第一次塩業整理‐明治43年4月(1910) 全国の非能率な塩田の整理

第二次塩業整理‐昭和3年(1928) 塩の増収・生産コストの低減指導実施、蒸気式

塩釜導入、瀬戸内の塩田整備と集中化

第三次塩業整備-昭和34年(1959) 枝条架流下式塩田の転換、加圧式直煮製塩

第四次塩業整備‐昭和47年(1972) 塩田の廃止とイオン交換膜式製塩法の転換

*参考資料-財団法人塩事業センター

 

昭和の塩飢餓

昭和16年(1941)、太平洋戦争に突入、第二次世界大戦がはじまると、塩の燃料の調達がしだいに困難になり、塩の生産量は下がり続けてきます。

戦争中は、植民地の台湾、中国からの安価な輸入塩が途絶えて、深刻な塩不足になってきていました。敗戦の年、塩の輸入が全く絶え、それに加えて暴風が各地の塩産地を襲い、ただでさえ疲弊していた製塩業が燃料もなく衰退、国民への塩の配給量も生活を維持するのに必要な最低の量すら確保するのが困難になりました。

日本中が塩不足の状態に陥った昭和20年(1945)、政府はこれに対処して駐留軍の総司令部に塩不足の事情を訴えて海外塩の輸入を要請します。総司令部から「必要物質の輸入に関する指令」が発表され、必要物質の輸入の申請は国民の最低生活の維持の必要量しか認められず、政府は輸入塩を最小限に抑えるために、国民に「自給製塩」を推進していくことを奨励します。津々浦々で塩田がつくられ、塩田ができない浜では、ドラム缶で海水を直煮する製塩が雨後の筍のように出現します。

それでも、戦争中の炭鉱の荒廃と電力事情が悪化するばかりで、わが国の塩の供給は存亡の危機にさらされました。鉄道の各駅では、漁村で作られる自家製の塩をもとめて闇の買い出しが盛んになり、警察の摘発による塩の没収が日常的な出来事になってきました。

この窮状を打開するために、政府が製塩業者に燃料を提供して製塩を依頼しましたが、ついに昭和23年10月、専売史上初めて塩の買い入れができなくなり、専売の機能が停止してしまいます。配給の塩が絶対的に必要な量に満たなくなり、昭和の「塩飢餓」に落ち込んでいったのです。

しだいに総司令部もわが国の特殊事情を理解し、先ず青島塩の輸入を許可し、昭

和21年2月、青島塩を積載した延慶丸が横浜に着いたときは、国民は、これでやっと塩飢餓から抜け出すことができると安堵し、喜びの声があがりました。

青島塩をきっかけに、塩の輸入量は右肩上がりに増加していきましたが、中国内戦の影響で中国塩の輸入が激減、輸入塩の大半はアラビア、アフリカ、インド、エジプトなどの遠海の塩によって占められていきます。

昭和24年(1949)6月、大蔵省専売局が日本専売公社と名称が改正されると、戦時体制の自給製塩は廃止されます。政府は「少なくとも国民必需の食料塩だけは国内での自給体制を確立する」という有事の際の塩の確保を基本方針にすることを閣議決定し、食塩の自給を達成することをわが国の塩業の使命としました。

国民の需要を賄うことができる生産目標は70万トンとされ、塩業の保護育成のために、製塩設備や技術改良、資金資材の援助を強力に押し進めました。全国的に流下式塩田の転換、真空式蒸発釜の導入、海水直煮製塩の新設など、画期的な技術革新と設備の改善が次々に行われていきます。

これにより、食料用の国内塩の自給体制がきると、一時中断されソーダ工業用塩の自己輸入が再開し、戦後の混乱期から脱却することができました。

政府はこの塩飢饉の体験から学んだ教訓を生かし、国民の食用塩の自給と安定供給を政策の柱にして、戦後の塩事業の発展に力を注ぎます。

 

枝条架・流下式塩田

戦後、海外から安価な塩の輸入も再開されて塩不足を乗り切ることができましたが、復興に大量のソーダ工業用の原料塩や食品加工用の塩の需要が急増したため、ふたたび深刻な塩の供給不足に直面しました。

日本専売公社に引き継がれた塩の専売は、食用塩の国内自給を目標に、塩田整備と生産技術の研究開発が進められました。17世紀の末の江戸時代に完成した入浜式塩田は、第2次世界大戦後まで250年間も続いていましたが、燃料と労働力の大幅な合理化にせまられます。

昭和27年(1952)から、従来の砂を媒体とした塩田から一変して、砂を動かさないでゆるやかな勾配の地盤の上に砂を撒いて、海水を流すことによって、太陽熱で水分を蒸発する「流下式塩田」への大幅な転換が進みます。

流下式塩田には、枝条架といわれる立体の濃縮装置が併用されており、竹の枝を編んで吊り下げたものに濃縮された海水を汲み上げて上から散布すると、風で水分が蒸発し、さらに海水が濃縮される設備です。

地上の流下盤からの蒸発は太陽熱を利用するので日差しの強い夏季に威力を発揮し、枝条架は風力によって蒸発を行う濃縮法なので温度の低い冬季に威力を発揮します。

枝条架・流下式塩田は入浜式塩田に比べて、就労日数が入浜塩田の時代には約110日であったものが、約290日と増え、年間を通じて塩の生産ができるようになり、入浜式塩田のようにひとの力で重い砂を動かすことから、ポンプで海水を移動することで、従来の塩田に比べ10分の1の労力で2倍から3倍の生産高が実現したといわれます。

当時、日本の食塩の総需要は年間約100万トンで、自給できたのはその半分しかんく、価格は輸入塩の2.4倍でしたが、流下式塩田の採かんと真空式蒸発釜を組み合わせた製塩法が塩の大量生産を可能にし、食用塩の自給が実現しました。

全国の塩田が枝条架・流下式塩田に転換された昭和34年末には、国内生産高が117万トンと過去最多記録を達成。この方式によってわが国の製塩業は、農業的な重労働から解放され、人手のからない工業的な製塩に大きく変ります。

幕末に長崎伝習所でオランダ人医師、シーボルトが伝えたといわれる西洋式製塩が、半世紀の歳月を経て、ここに実現したのです。

流下式塩田でつくられた並塩の「白塩」は、味噌醤油や漬物に使い勝手の良い、美味しい塩だったとの定評が今も漬物業界で語られています。

 

2.白い革命-イオン交換膜製塩わが国から

塩田が姿を消した日

昭和46年(1971)2月、「塩業近代化臨時措置法」が国会で正式に承認され、全国の流下式塩田が撤廃され、新技術の「イオン交換膜方式製塩」に全面転換することが決まり、同年4月16日より施行されました。

「第四次塩業整備」という国策にしたがい、わが国の塩業は、農耕的な塩田製塩が終焉し、化学工業的な大量生産をめざした塩の近代化が開幕したのです

昭和46年(1971)の塩業審議会の答申を要約すると、国際化の進展に対応して、新技術への転換を基本にして塩業の近代化を促進するもので、その為には、農耕的な塩田製塩から新技術のイオン交塩膜方式の転換を図り、大規模な化学工業化することを目標に近い将来、安価な輸入塩に対抗できる価格の実現をめざすことを掲げています。  

昭和45年(1970)ころから、日本経済の高度成長が軌道に乗り、塩業も塩田から徐々に工場プラントによるイ自立を交換膜製塩に切り替わり、オーストラリアのメキシコの大規模な天日塩田の開発により工業塩が確保され、塩の大量供給が実現します。

流通の現場では、物流・流通コストの合理化が強く求められ、日本専売公社は、民営移管に向けて、市場競争に対応する体制を整備し、塩業の自立をめざして新製品の発売や、食品加工向けの自主流通塩が市場に登場してきます。

イオン交換膜製塩の転換に際しては、近代化に対応できない塩田業者には、廃業を円滑に進めるために国の助成金の交付で補償し、これまでの製塩メーカー23社を7社に整理統合、各社15万トン以上の大規模な化学プラントを建設し、塩業の近代化を図るものです。

専売制の保護がなくなっても、わが国の塩業が自立できる体制を整えることを目的にしたもので、将来、塩の近代化が達成された暁には、塩専売制度は廃止されるべきだと答申しています。

明治の専売制度が発足して以来、国内の零細な製塩業者は、常に外国からの安価で良質な輸入塩に不安と脅威をいだいてきました。自然の太陽と風で蒸発する海外の天日塩と、熱エネルギーを消費するわが国の製塩コストを比較すると雲泥の差があり、価格競争では到底、輸入塩に太刀打ちできません。

塩田式は、雨や日照時間など自然の気象条件に支配され、広大な土地を基盤にして多くの労働力を必要とします。政府の買い上げ価格は、製塩コストを基準にして決められるため、天候不順による塩価の暴騰、生産過剰による減産調整など、常に買い入れ価格が変動する不安定な状況に置かれていました。

イオン交換膜方式の製塩は、化学工業プラントで生産されるため、天候に左右されることもなく、塩の安定供給と低コストが実現可能になると大いに期待されました。                    

塩田方式に比べて、専売買上げ価格をトン当たり12000円から7000円にコストダウンが可能になり、土地の面積は1200分の1、労働力は、流下式塩田の10分の1、生産量は従来の7倍に飛躍的に増産されると予測され、イオン交換膜方式の画期的な技術革新は「白い革命」と称され、国内での自給体制の確立という長年の宿願の達成に期待が込められていました。

 

イオン交換膜方式の製塩法

イオン交換膜方式による塩水濃縮の方法は、アメリカで海水を淡水化する電気解析の技術を応用したものです。昭和24年から日本専売公社で研究開発がはじまり、昭和30年、本格的にイオン交換膜法式の製塩が実験され、翌年から徳山曹達につづいて新日本化学、旭硝子が生産に着手します。

イオン交換膜製塩は、水に含まれる約3.5%の塩分を電気解析によって塩化ナトリウムを選択的に抽出するものです。海水にはナトリウムは陽イオン、塩素は陰イオンのかたちで存在しており、陽イオンだけを通す陽イオン交換膜と陰イオンだけを通す陰イオン交換膜の2種類のイオン交換膜を交互に並べて小さな部屋をつくり、直流電流を流すと、陰イオンの塩素はプラスの極に、陽イオンのナトリウムはマイナスの極にひきつけられて移動します。

この原理に基づいて海水を連続的に解析していくと、濃縮室には陰陽イオンのナトリウムと塩素とが交換膜を通して抽出され、塩化ナトリウムの純度の高い濃厚海水ができます。このイオン交換膜を通り抜けるミネラルは、ナトリウムと塩素のほかに、微量のカリウムと臭素が抽出されます。本来、海水に含まれている、塩化マグネシウム、カルシウムのほかに、微量ミネラルなどは、塩釜の垢になり、熱効率が悪くなるので、事前に化学薬品で中和し、真空式蒸発缶で塩を結晶化します。

イオン交換膜方式という電気解析による製塩法は、世界で初めてつくられた人工的な塩です。化学工程を経た塩は、塩化ナトリュウムが純度99.9%以上の薬品に近い高純度な塩で、当時は化学という言葉にはモダンな響きをもっており、専売公社自からイオン交換膜の塩を”化学塩”と称していました。

しかし、電気エネルギーを使うイオン交換膜製塩のコストは、依然として国際価格とは歴然と大差があり、二度にわたるオイルショックで期待が裏切られます。

イオン膜製塩に全面転換した専売公社は、その理由として生産効率を掲げると同時に、塩の大生産地の瀬戸内海の海水汚染をあげています。

1960年代は日本の高度成長期で、化学工業、製紙工業がフル稼働し、全国の河川が工業廃水に汚染され、国民の多くが環境汚染による食の安全に強い不安を抱いていた公害が社会問題になっていた時代です。 

水俣病、水銀やカドミウム米などの食品公害がつぎつぎと発生し、 連日マスコミで農薬問題、食品公害がとり上げられていました。

瀬戸内海で生活排水による赤潮が発生し、海洋汚染が社会問題になったとき、専売の広報は、イオン交換膜は、PCB、重金属などの有害な物質を通さないので唯一安全な塩であると一貫して強調しています。         ↑イオン交換膜方式による製塩装置(昭和46年撮影毎日新聞社)

塩田が廃止された瀬戸内海沿岸の広大な塩田跡地には、化学プラント、造船などのコンビナートが建設され、瀬戸内海は臨海工業地帯に変貌しました。塩田廃止は、官民一体で産業の近代化を推し進めた国の産業政策の一環だったのです。

 

□イオン交換膜方式の生産性

昭和14年  入浜式  1000トン当たり  110人

昭和37年  流下式  1000トン当たり 高純度な人

昭和63年  イオン式 1000トン当たり  0.8人

昭和14年  入浜式  1ヘクタール当たり 124トン

昭和37年  流下式  1ヘクタール当たり 201トン

昭和63年  イオン式 1ヘクタール当たり 15万トン

 

3.自然塩復活運動の足跡

草の根の塩田復活運動

昭和46年4月、「塩業近代化臨時措置法」が成立し、わが国の塩づくりが、塩田からイオン交換膜製塩法に全面転換しましたが、塩に関して国民の関心は低く、世論を無視して塩の近代化法案は国会をすんなりと通過しました。

食塩はすべて専売公社から供給されてきたので、製塩方法が化学的なイオン交換膜方式に変わっても、あえて塩に関して問題視することもなかったのでしょう。

また、イオン交換膜方式に転換する5年くらい前から、イオン膜塩は、純度が高く効率の良い塩として徐々に食品加工の市場に普及しており、一般消費者はすでに食品加工に使われていたことに気づかなかったのです。

イオン膜塩が発売された当初、料理に関心の高い主婦の間に、漬物が上手く漬からない、塩加減が難しくなったという声がでた程度で世論を喚起するほどの問題にはなっていませんでしたが、自然食の団体や医師、塩の研究者の間から、化学的な高純度の塩がひとの身体に悪影響を与えるのではないかという不安の声が挙がってきました。

塩はいのちに関わる問題だとして、いち早く、塩田復活運動に立ち上がったのは、桜沢如一が主宰する日本CI協会です。専売公社の流下式塩田の技術者であった西本友康が日本CI協会の機関誌に「食用最適塩-恐ろしい純塩の害」と題した論文を発表、「にがりがゼロの塩は体に有害であり、適度のにがりを残した塩田の塩こそ最適な食用の塩である」と、塩田復活を訴えたのが運動のきっかけになりました。

はじめは松山から草の根的な消費者運動の火の手が上がり、「流下式塩田を残そう」という呼びかけで塩田の存続運動がスタートしています。

インド、ヨーロッパでマクロビオテックの普及活動を行っていた菅本フジ子は、消費者団体の支援を得て、全国から五万人の署名を集めて国会に流下式塩田の存続を陳情しましたが、すでに塩田の完全廃止を定めた塩業近代化臨時措置法が国会を通過した後で、消費者の声はとりあげられないままに終ります。

しかし、翌年には多くの医師や研究者、消費者団体の支援を得て、日本CI協会の分化組織である「食用塩調査会」が結成され、高純度のイオン塩の健康に及ぼす影響を化学的、生物的に立証するために調査・研究が始まりました。

食用塩調査会の代表に日本CI副会長の牛尾盛保医師(厚生荘病院長)、調査には立命館の大学院で原子力工学を学んだ谷克彦が中心になって活動を開始します。谷は専売公社の史料や全国の塩浜を丹念に調査し、伝統的な製塩法を継承している伊勢神宮の塩を再現しようと、能登の揚浜式製塩を体験、食用塩調査レポートにまとめて、公社、消費者グループに自然海塩の復活を呼びかけます。

 

□食用塩調査レポート要約(昭和47年4月~7月)

1.高純度な専売塩

伊勢神宮の入浜式塩田の塩と能登の揚浜式の観光用塩田の二つの伝統的な製塩法でつくられた塩や流下式塩田の塩、輸入塩、イオン塩を食品分析センターに持ちこみ比較分析した結果、専売のイオン膜塩は製法の過程でにがりが排除されており、昔の塩に比べて、ほとんどにがりが残っていないことを立証します。

当時、血液生理学の森下敬一博士は「塩化ナトリウムが100%近い食塩は、もはや化学薬品。人体のどこを見ても塩化ナトリウムが単独で働いている場所はない。各種のミネラルがバランスよく入っていれば、塩化ナトリウムの機能が果たせる」と純粋な塩への危惧を語っています。

 

2.わが国のナトリウム純度の変遷

専売塩の調査から明治38年ころの食用塩は、塩化ナトリウムの平均純度が74%であったのに、昭和45年のイオン塩は、99.4%まで、70年の間に純度が約25%と大きく変化していることが判明し、海水の中の塩の固形成分は塩化ナトリウム78%であることからみて、明治・大正時代の塩には、塩以外のミネラルを多く含んでいたことが考えられ、精製された高純度の塩の身体に及ぼす影響を問題提起しました。

 

3.貝の殻のフタあけ実験

高純度なイオン膜塩がどのようにひとの身体に影響するのか、生物実験による学術的な検証がなされていないことを指摘。そのひとつの例として能登の自然海塩とイオン塩を溶かした二つの異なった塩水に浅利貝を入れた実験を実施し、この結果、自然海塩の浅利は、元気に頭と足から潮を吹くのにくらべて、イオン膜塩に入れた方は、貝の殻が閉じたままの状態であることを実験で示しました。

 

4.金魚の実験

塩素を含む水道水で弱って死にかけた金魚を一時的に食塩水に入れると元気を取り戻すことはよく知られていますが、1%の食塩水の中に金魚を入れて観察すると、純度99.9% の試薬塩化ナトリウムの溶液に入れた金魚は一週間もすると、全部死んだのにたいして、自然塩に入れた金魚は一匹も死ななかった実験を通して、人体への影響を問題提起しています。   

このように誰もが納得できる分かりやすい生物実験を通して、国会議員、公社、自然塩の支持者たちに向け、地道に自然海塩復活の活動を展開していきます。

伝統的な塩田製塩の復活運動は、多くの医者や自然食の有志、塩づくりを志す若者たちのあいだに共感の輪が広がっていきました。

イオン膜塩への批判に対して、政府系の国立栄養研究所は「国民が摂取する食塩の量は、一日に約10グラムである。その中に含まれるミネラルの量は、ほんのわずかで、国民が一日に最低必要とするミネラルの量の千分の一にも満たない」と発表、栄素のミネラルは食事から摂取するもので調味料の塩からミネラルをとるのは無理だという見解を発表して公社のイオン塩を弁護しています。

40年代、イタイイタイ病、スモン病など、工業廃水の公害発生や、農薬によるカドニウム問題、化学添加物の食品公害など社会問題化していた時期と重なり、自然・健康志向の消費者の間に、自然塩復活への期待が高まってきました。

 

舌を刺すイオン塩の悪評

イオン膜塩が市場に出回り始めたころ、ピリッと舌を刺す塩の違いに敏感に反応したのは、プロの料理人たちでした。料理の専門家の間では「塩がまずくなった」というのが常識になっていました。

料亭「辻留」の先代辻嘉一は当時の塩をつぎのように随筆に書いています。当時の料理人たちの気持ちがよく表現されているので引用します。

「料理を作るうえで最も大切なのは塩です。純度99.9%の薬品のような食塩は、塩辛さが矢の先のごとく鋭く、旨さは全くありません。昔の塩というか、われわれが塩と呼びたい塩は、にがりやその他のものが、その直線的な辛さを包んだうまい塩です。これが神様から授けられた塩ではないでしょうか。専売公社は、にがりは工業用には邪魔になるもので、精白度が高い塩が上等な塩だと盲信しています。純塩に近い塩は薬品または工業用にはよいでしょうが、はたして人間が食べる塩でしょうか。(中略)自然を取り入れた美味しい塩を家庭で買えるようにして欲しいのです。 

ひとりの塩の必要量はごく微量なのですから、高くても美味しい塩を求めます。

旨い味というものは不純のように思っているにがりの中に、美味という不思議なものが秘められているように思われます」と語っています。

こうした「塩がまずくなった」という消費者の声に専売公社は、一貫して味は主観的なものだと無視し、塩の主成分は塩化ナトリウムそのものであり、にがりは“夾雑物”だと一貫した主張をしています。消費者もピリッと舌をさす純度99%以上の高純度の塩に慣れ、いつのまにか塩とは苦くて辛いものというという思い込みが出来上がってしまったようです。

 

“自然”再製塩の誕生

昭和48年(1973)7月、専売公社と食用塩調査会の交渉が続くなかで、ついに専売法の枠の中で、公社の輸入天日塩を使って、淡水で溶解して再結晶すれば、「特殊用塩」として製造できることをみつけました。特殊用塩とは、専売公社の原塩(イオン塩、精製塩)を使って加工したアジシオや胡麻塩などの製品群です。

最初に赤穂化成に特殊用塩の認可が下り、続いて四国の伯方島の「伯方の塩」、沖縄では、日本CI協会会員の知念隆一の「シママース」が許可されましたが、ここで直面した問題は、自然に近い再製塩をつくるには、塩水の濃度を高める海水を必要としますが、専売法で国内の海水を使うことが固く禁じられているので、苦肉の策として、輸入天日塩ににがりを加えて、淡水で溶解し平釜焚きする製塩法を採用します。にがりを加えることで高純度の天日塩の純度を下げ、にがり分を残して昔風のしっとりとした粗塩に近づけるという製造マニアルが谷克彦たちの手でつくられます。

これを具体化するのに天然のにがりをどこから入手したらよいかという次の難問に直面、それを解決するのに、中国からにがりを輸入している赤穂化成に、にがり添加の再製塩の生産を委託します。

自然塩普及会から「赤穂の天塩」ブランドで新発売され、灘生協や自然食グループの強い支持をうけ、全国に広まっていきました。専売公社は、にがり添加再製塩の市場の反響が大きかったので、翌年には消費者のニーズが高い、湿り気のある昔風の粗塩「クッキングソルト」や純度95%のウエットソルトとよばれる「家庭塩」を開発、輸入天日塩を粉砕して、塩化マグネシウム、リンゴ酸などの食品添加物を添加した「漬物塩」を新発売します。

しかし、一歩先んじた赤穂の天塩、伯方の塩、シママースの銘柄がすでに市場に浸透しており、専売のマーケティングは伸び悩んでいました。

自然食品ブームのなかで、マスコミによる「化学塩対自然塩」という対立の構図が作られ、にがり添加再製塩は、多くの自然・健康志向の消費者から幅広く支持され、現在では、家庭塩の4割を占めるほど普及しています。

かつて明治に行徳で開発された真塩仕立ての再製塩は、昭和になって“自然”再製塩として再現されました。             *シママース写真「青い海」パンフレットより

 

本物の自然海塩を求めて

自然塩復活運動は、塩田の塩に近い塩を再現した「にがり添加再製塩」の販売に成功を納めましが、谷克彦を中心とした食塩調査会の仲間たちは、にがり添加再製塩は、専売法の隙間を見つけた妥協の産物で、本来の国内の海水から伝統的な自然海塩をつくりたいという強い志をもって運動を続けていました。

昭和48年(1973)から、伊豆下田、沖縄読谷村などで「塩づくりワーキングキャンプ」を開催、国内の海水から伝統的な自然海塩をつくる試みを続けていました。昭和51年(1976)11月、谷克彦は、自然海塩を実現しようと、仲間とともに伊豆の大島に入植し、塩の実験工場を建てます。海岸沿いにブロックを積み上げた塔を建設し、その上から海水を流して太陽と風のちからで濃縮塩水をつくり、結晶箱で結晶化する天日塩の製塩試験場を開設します。  

大島研究所は消費者グループからの経済的な援助を受けて、三年にわたる自然海塩の実験を繰り返し、ブロック塔と温室内の天日蒸発、波の力を利用して海水を汲み上げる波力揚水装置の実験に成功します。

昭和54年(1979)同試験場を拠点とした (社)日

本食用塩研究会が発足。初代大島研究所の所長に大阪府立大学教授の武者宗一郎が就任し、実務は谷克彦と仲間たち、事務局を村上譲顕が担当、理想の自然海塩の実現に向けて始動します。 

伊豆大島 天日塩の製塩試験→                         

 

自家製塩と会員配布の認可

昭和55年8月18日付の朝日新聞に「専売の堅陣ゆるむ」の見出しで、専売公社から伊豆大島の塩に自家生産の許可が下りたニュースが掲載されています。

前年に研究用のできた塩はすべて海へ投棄することを条件に試験製造が許可されていましたが、自然海塩の研究開発を支援してきた消費者グループの「塩の会」から「せっかくできた塩を捨てるのはもったいない。捨てるくらいなら私たちが試食する」と、試作塩の払い下げの陳情を繰り返し、塩の会、国会議員の働きが功を奏し、公社は自家用塩として、従業員とその家族一人につき、年間12キログラムまで自家消費できる異例の措置がおりました。

さらに公社との交渉を重ね、大島研究所の研究支援として会費を納めた会員に、試作塩を無償で配布することが認められ、塩の試験製造の許可と会員配布の承認された塩は「海の精」と名づけられます。

昭和60年(1985)専売公社が日本たばこ産業株式会社(JT)に民営化すると、塩の専売法も改正されて、「海の精」は自然食品店や生協、自然食を扱う協力店を通して、一般消費者も購入することができるようになりました。昭和54年(1979)毎日新聞の「これぞ塩の純ナマだ」の記事を発端に、自然・健康志向ブー運動波にのって、TV、料理雑誌などのマスコミで自然海塩がにとりあげられ、人々の塩の関心が高まりました。

22年にわたる「海の精」の自然海塩復活の強い思いは、平成9年(1997)の塩の自由化をうながした原動力となっています。塩の選択の自由を実現した自然海塩復活運動は、塩の歴史に刻まれています。塩の近代化で失われようとしたわが国の伝統的な美味しい塩―食べる塩の復活は、まさに塩のルネッサンスだったのです。

 

 

4.小粒で重い現代の塩

食塩から工業塩の時代

19世紀、米国スミソニアン歴史博物館長であったマルサフは、イギリスの産業革命の勃興よって、塩の歴史が1850年前後まで“調理用塩の時代”であったが、現代は“化学用塩”の時代に変わり、塩の価値が大きく変容したと論じています。

イギリスの産業革命が導火線になって世界の国々が揃って近代化の道をたどり始めます。そのひとつが塩からナトリウムと塩素に分ける化学技術の発明で、ソーダ化学工業が盛んになり、ナトリなど、らは、ソーダ灰、苛性ソーダ、重曹などの化合物をつくりだし、塩素から晒粉、塩酸、塩素酸塩等の化合物がつくられ「産業の糧」となる化学工業の原料塩の需要が急速に増加してきます。

世界の工業塩の需要は、主にソーダ工業を中心に塩化ビニール、建材、薬品、生活用品など、14000種以上の原料に幅広く使われており、塩の消費量はその国の文化水準の指標となっています。

産業革命以来、欧米列国は競って「産業の糧」となる塩の生産を行ってきましたが、食の世界を豊かにするため、使い勝手の良い“食べる塩”をはじめて商品化したモートンは、食塩の歴史の開幕をつげる現代の食塩の象徴であり、世界の食塩のスタンダードになっています。

雨降りの中、女の子が傘をさして塩をこぼしている。1919年米国レディーズ・ホーム誌に載ったモートンソルトの広告です。

モートンの塩は、雨降りでも湿らないでサラサラしている、アルミ缶からでてくる塩の粒は立方体の結晶で、どんな料理にも使える食卓塩だと謳っています。

このキャンペーンは家庭の主婦の心をとらえ、塩のモートン・ブランドがつくられた伝説的な広告です。1911年、創業期にモートンは、塩の固結防止剤、炭酸マグネシウムを添加した食卓塩を世界で初めて商品開発しました。これによって結晶同士がくっつかないで、サラサラとした画期的な塩が誕生。「パーフェクト・キューブ・クリスタル」と書かれ、蒸気圧縮釜でつくられる塩の結晶形は正六面体の小粒で重い塩です。

 

天日塩の二大供給基地

経済の高度成長を背景に、ソーダ工業、食品加工の原料塩の需要が急増したため、大正6年(1917)に施行されたソーダ工業界が海外塩を直接買い付けできる「自己輸入」が再開されますが、わが国の輸入塩の供給基地は、主にメキシコ、オーストラリアの天日塩で、工業用の塩はすべて輸入塩に頼っているのが現状です。

日本の商社とオーストラリア、メキシコなどの天日塩の産塩国との共同開発によって塩の供給が軌道に乗り、この両国から輸入される天日塩は、わが国の塩の年間消費量の85%を占めています。

メキシコの太平洋に面したグレレロ・ネグロ塩田は、琵琶湖の三分の二に及ぶ天日塩田で、メキシコ政府から租借して製塩が行なわれています。ポンプで海水を水田に引き込んで、塩を結晶化します。年平均二~三ミリの降雨量と、気象条件に恵まれ、自然蒸発の天日塩づくりに最適な環境にあります。

西オーストラリアでは、昭和三十七年から、シャーク湾地区で塩田開発がはじまり、その後はポートヘッドランド、レフロイ湖などで塩田開発が進展し、なかでもポートヘッドランドの塩田は、日米の技術提携により安定的な供給体制がつくられています。                             

オーストラリアやメキシコの大規模な天日塩田では、海水を2年から3年放置して結晶化した天日塩を機械で削り取り、塩の塊を粉砕したあとに濃縮塩水で洗浄して汚れやにがりを落として出荷されます。

欧米での工業用の原料塩は、豊富な岩塩が主流で、地下の岩塩層に水を注入して塩を溶かし汲み上げ、直に塩水を原料にするか、真空式蒸発缶で再結晶して工業塩が生産されます。その塩の需要の八割は、主にソーダ工業の原料塩、道路の融雪などの需要で占められています。

世界最大の米国の製塩工場では、年間200万トンの生産能力をもっており、わが国の食用塩の一年分を軽く賄える生産量を誇っています。21世紀の塩の世界は大量生産とグローバル化による寡占化が一層進んでいくと思われます。

↑オーストラリア天日塩田

 

5.均一な大量生産の塩

平釜から立釜に

わが国の食品加工用の塩のほとんどは、イオン交換膜と真空蒸発釜で量産された食塩と、天日塩を溶解し真空式蒸発釜で結晶化した精製塩が使われています。

精製塩は、生産地で泥、鉄さびなどの汚れを濃縮塩水で洗い落とした天日塩を溶解・再結晶したもので、蒸発釜の熱効率をよくするために、事前にアルカリやソーダ灰を入れ、スケール(湯あか)の原因となるマグネシウムや炭酸カルシウム、石膏などの不純物を取り除いてから煮詰めるため、高純度の精製塩が生産されています。

わが国の塩の需給統計では、業務用塩と生活用塩の二つに分類されており、業務用塩は、食品加工用、家畜、融雪などに消費され、生活用塩は家庭やレストラン等に使われる食用塩に仕分けされています。

家庭用塩は塩事業センター(旧専売)から、塩問屋を通してスーパーなどに流通、100gから1kgのパッケージで売られ、業務用の塩は、用途に合わせて選択され、20kgから25kgのクラフト紙の包装、または1トン単位の大袋で出荷されます。

業務用塩が使われる代表的な加工食品は、麺類、パン、菓子、味噌・醤油、漬物などの発酵食品、かまぼこや魚肉練り製品、干物、塩辛の水産加工品、ハム・ソーセージ、バター、チーズなどの乳製品、マヨネーズ、ソース、インスタント食品の粉末調味料、カレールーと多岐にわたって消費されています。

このほかに、調理における脱水、脱臭、殺菌、漬物の下漬けなど、調理の前段階で使用される“捨てられる塩”も含まれています。

 

□食品加工用の塩の種類

乾燥塩

食塩-イオン交換膜方式、純度99%以上の乾燥塩。平均粒径0.4mmにがり分0.2%含む。主な用途は食酢、ソースなどの調味料、水産加工など幅広く使われています。家庭用小袋は、塩事業センターから販売。

特級精製塩-輸入塩(天日塩)を溶解再結晶した塩化ナトリウム純度99.8%以上の高純度な乾燥塩で、主な用途は、スープの素、カレールー、パン、麺類、レトルト食品、魚の練り製品、ソース類。

精製塩-塩化ナトリウム純度99.5%以上で、用途は特級精製塩と同じ。両方とも、溶解・固結防止のために、塩基性炭酸マグネシウム基準0.3%を添加。

微粒塩-純度99.7% 溶解性、分散性が優れ、お茶漬け、胡麻塩、マヨネーズ、バター、チーズどの乳製品、練り製品、肉加工に使用。

湿塩

並塩-イオン交換膜法で製塩、純度95%以上 水分約1.4% 平均粒径0.4mmで、業務用の味噌、麺類、たらこなどの魚卵加工などの一次加工に使用。

白塩-並塩の大粒タイプで、純度93%以上。主な用途は漬物、醤油業界で使用。

粉砕塩・原塩-海外輸入塩を粉砕・洗浄した塩で、純度95%以上。味噌醤油、漬物に使用。にがり添加再製塩、精製塩の原料。

 

食品加工の機械化に適した塩

昭和45年(1970)頃、わが国の経済成長が右肩上がりに成長し、人々の暮らしが豊かになると消費意欲が一段と高まり、全国各地にスーパーマーケットなどの量販店が進出、外食産業の分野では、ファミリーレストランが登場し、わが国の個人消費と暮らしの様相が大きく変化した時代です。

食品加工業界においても、量産に対応して食品加工の自動化が採用され、それにともない食品加工に使われる塩も、機械化に適した性格の塩が求められてきました。 

食品工場では、塩を計量し、均一な味になるように自動機械化されているので、水分を含んだ湿った塩は不適合で、サラサラした乾燥塩が求められ、塩の結晶の大きさ「粒度」を一定の幅に揃えることが重要な条件となります。塩の濃度は重量で決まるので、均一の味を維持するのにも粒の大きさを調えるが不可欠となるからです。

消費社会を迎えた50年代、インスタント食品、レトルト食品、カレールーと続々と加工食品が市場に登場してきました。

当時の専売の塩には、塩の粒を揃えるという発想がなく、大小混在した粒のために大手の食品メーカーでは、塩を計量して工場に空気で塩を送るのに、塩の細かいパウダーが舞って正確な塩の量が測れないという問題を抱えていました。

そのためにアメリカから均一な塩粒を選り分ける篩(ふるい)の技術が導入されました。篩の技術は、たんに塩の機械の適性を解決したばかりではなく、粒度分布の幅によって、塩の溶ける速度やかさ密度が違ってくるので、塩の性質を大きく変えることができるようになります。その結果、食品の用途に合った特徴のある塩の商品開発が可能になり、今日の食品加工における調味・調理の合理化に大いに貢献しています。

 

進化したフレーク塩

現在、真空式蒸気缶で工業的に大量生産される塩の結晶形の基本は正立方体ですが、製塩技術の向上によって、結晶形を自在に変えることができます。

真空式蒸発缶の中で結晶が育つ過程で濃縮海水の流し方を変えると、結晶の角が取れて凸レンズ型の塩や球状の塩になり、媒晶剤のミネラルやアミノ酸などを入れることによって、いろんな結晶形に変化します。

真空式蒸発釜のなかで結晶のかたちを変えることによって、塩の性格が異なってくるのでいろんな食品加工に最も適した塩をつくることができるようになっています。

フレーク塩はフルール・ド・セルのように“ふんわりとした軽い塩”を工業的につくった食塩です。結晶が不定形で、嵩密度が小さく、同じ容量で重さが約半分という軽い塩です。塩味の幅が広く、料理の微妙な塩加減ができる塩で、混合性、溶解性、付着性に優れており、インスタント食品、カレールー、だしの素、うどん、ハム・ソーセージなど食品加工に幅広く使われています。

フレーク塩のように軽い塩を「嵩(かさ)高い塩」といいます。みかけは同じ容量でも重さが軽いフレーク塩は、塩を煮詰めるとき、別の加熱器で加熱した濃縮塩水を平釜に入れ、静かに液表面で結晶を成長させます。結晶は前後、左右、下に向かって成長し、液表面に薄い塩の結晶で覆われ、鱗片状の結晶になります。

19世紀の米国ミシガンが発祥地とされ、森林に恵まれたミシガンは木材産業で栄えたところで、製材工場の兼価な廃材を利用して塩水を平釜に入れ蒸気で加熱すると液表面で塩の結晶ができ、それが大きく育って釜底に沈殿します。

この軽い塩は、「アルバーガー・ソルト」とよばれ、1887年にはミシガン方式による製塩法はアメリカ塩市場の49%を占め、缶詰、食肉加工、バター、チーズなど食品加工に広く使われています。

わが国で家庭の食卓で使われている代表的なフレーク塩の用途は、胡麻塩です。

軽くて嵩密度が小さいので、塩が先に出ないで、胡麻と一緒に振りかけることができます。家庭でハーブや紫蘇塩などの香味塩をつくるときも、軽い塩を使わないと塩との混合が上手くいきません。また酢の物やドレッシングを作るときは、結晶が固く溶けにくい食塩を使うよりも、フレーク塩のように溶けやすい塩を使う方が望ましいのです。

フレーク塩は、乾燥した嵩密度の大きな塩とくらべて5割ほど塩辛さが弱く、塩分濃度が違ってきます。料理のレシピで小さじ一杯と書かれていた場合、食塩では小さじ一杯が5グラムほどですが、嵩密度の小さい塩は、小さじ一杯6グラムと少し多めの量が必要です。

 

□塩の重さを比較(塩1㎤重さ)

食塩、精製塩  1.3~1.4g

焼き塩     0.9~1.1g

ニガリ添加塩  0.8~1.0g

フレーク塩   0.6~0.8g

 

食品加工の塩の選択基準

食品加工に適した塩の選択に際して、いくつかの塩の性格、結晶などの要素を組み合わして、それぞれの加工食品にとってもっとも適切な塩を設計します。

食品加工に適した塩は、塩の結晶形、粒径により、サラサラした「流動性」、素材に付きやすい「付着性」、水に速く溶ける「溶解性」、見かけの塩密度「嵩比重」、食材によく混ざる「混合性」等が加工食品の塩の選択に重要な指標となります。

塩の溶解性は、粒径の小さいものや顆粒状の塩、フレーク塩などの表面積が大きいものほど塩の溶ける速度が速くなります。流動性は、一般的に乾燥していて、粒径が揃っていることが大切な要件で食品加工の自動機械化に対応した食塩です。

漬物や煎餅、水産物の加工などに使う塩は、ややしっとりとした付着性のよい、小粒の塩が使われます。

わが国の自然志向の強い消費者から、漂白された小麦粉や砂糖と同じように真っ白な塩を精製塩と批判する声もありますが、塩は本来白いもので、色のついた塩は、

汚れや薪の煙、ほかの鉱物が混じっているからです。天日塩、岩塩は粉砕し濃縮した飽和食塩水で洗浄して汚れやにがりをとります。海塩の場合は、淡水で溶解し温室で結晶化します。塩の精製化が化学塩と誤解されるひとつの原因です。

 

塩の安全性

塩には殺菌・防腐作用があり、塩は細菌の繁殖に適していない環境なので、最も安全で腐敗しない食品ですが、塩分濃度の高い状態でも生きられる「好塩菌」とよばれる微生物がいます。

好塩菌は通常、人体には悪い影響を及ぼさないといわれていますが、貯蔵の管理が悪いと耐性菌の腸炎ビブリオ菌、ブドウ球菌などの食中毒を引き起こす有害な細菌が繁殖する危険も考えられます。

また最近、工業振興国の工業廃水や海洋汚染が原因で重金属の混入が問題となっています。米国や東アジアの一部で、工業廃水で汚染した河川の塩田の塩は、釜で加熱蒸発した塩を使うことを法律化しようという動きが出始めています。

わが国では自由化後の輸入塩のチェックは、輸入代理店の自主規制にゆだねられているのが現状です。国際的に塩の固形防止剤の使用が認められているフェロシアン化合物は、日本塩工業会や輸入代理店では使用されていません。

また、中国やヨーロッパの内陸部ではヨード欠乏症(甲状線種、クレチン病)の患者が10億人いるといわれ、ヨードを添加することが義務づけている国もあり、旅行の土産や個人輸入の塩には注意が必要です。

塩の安全性に関して、各国は世界の評価基準であるCODEX(国際食品規格委員会)に準じています。CODEXとは、食品の公正な貿易と消費者の健康保護を目的として設置された国際機関で、食品全般における国際基準を設けています。

わが国は、重金属、有害ミネラルのチェックには厳しい基準を設けており、国際基準の二分の一の数値に設定されています。農薬、添加物チェックなど、食の安全性が厳しく自主管理されており、日本の塩は世界で一番清潔で安全な塩だと評価されています。   *大手製塩4社-ナイカイ塩業、鳴門塩業、ダイヤソルト、日本海水(2011年、小名浜・赤穂・讃岐塩業合併) 

 

□コーデックスの食用塩の品質規格

成分- NaCl純度(乾物基準、添加物除く)97%以上 塩化物3%未満

混入(有害)元素-国際保健機構(WHO)の塩の国際規格

As(ヒ素)=0.5mg/kg以下

Cu(銅)=2mg

Pb(鉛)=2mg/kg以下

Cd(カドミウム)=0.5mg/kg以下

Hg(水銀)=0.1mg/kg以下

*出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』  フリー百科事典(2012/07/04 )

 

 

 

わが国の塩の近代化

第三章「塩の近代化」では、明治38年(1905)の塩の専売制度が始まってから、平成9年(1997)に専売が終わるまでの約100年間の塩の歴史をたどってきましたが、わが国の塩の近代化とは、塩の歴史にどんな変革をもたらしたのか、いま一度簡単に振り返ってみましょう。

国が塩の生産から、輸入、販売を一括して管理する専売制は、安価な輸入塩の脅威から、国内の製塩を保護し、離島,僻地に至るまで全国均一の低価格で塩の安定供給することを使命に掲げ、技術革新に力を入れてきた100年の歴史があります。

世界の国々の専売の歴史と大きく異なっているのは、塩が支配者や教会の所有物であり、塩税による国の財政収入を目的にした専売制であったのに対して、わが国の専売は、塩業の保護と国民への安定供給を使命とした公益専売の色彩の濃いものでした。これによって、製塩業者は政府の安定的な買い上げ制度に保護され、流通を担っていた塩元売は地域の商圏が保障されることで、安定経営を維持できる恵まれた環境にあったと言えます。

 しかし、わが国は世界でも有数な化学工業国でありながら、国際価格より何倍もする高価な原料塩を使ってソーダ工業を営むハンデを背負っています。

にがりを含む海水塩を高純度に精製するには、膨大な熱エネルギーを必要とします。欧米のソーダ化学工業は、豊富で良質な岩塩や湖塩、塩水に恵まれており、わが国の製塩業は、つねに海外の安い輸入塩の圧力に悩まされてきました。

20世紀は戦争の時代ともいわれ、化学工業の産業の糧となる原料塩の大量生産に拍車をかけています。敗戦と同時に、これまで考えてもみなかったような「塩飢餓」に襲われた経験は、わが国の塩政策の根底に”トラウマ”として深く刻まれています。

戦後間もなく全国の塩田整備を進めて「枝条架・流下式塩田」に切り替えました。

これによって食用塩は十分確保されましたが、産業界の原料塩のニーズは高まるばかりで、ついに専売公社は、昭和46年(1971)2月、全国の塩田を撤廃してイオン交換膜方式の製塩に全面転換し、塩の近代化に終止符をうちました。

明治38年の専売制度に始まり、平成9年に幕を閉じるまで、100年に及ぶわが国の塩の近代化は、時代のニーズを反映した塩の工業化の軌跡だったといえます。

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増田 幸右 について

1964-1968 武蔵野美術大学 グラフィックデザイン科卒業 1968-1994 広告代理店電通入社 クリエーティブ・ディレクター 2002-2004 立教大学大学院 修士課程 2003-2008 (株)GN21 経営コンサルタント 2007-2010 浦安図書館ボランティアBCU会員 2010-2014 企業ブランドアドバイザー 2006-2014 日本海水学会員
カテゴリー: 第3章 塩の近代化 パーマリンク

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