最終章 21世紀の塩を求めて

塩は信頼のブランド

20世紀に日本の専売制100年の幕が閉じられ、新たに塩の自由化が開幕しました。これからの100年は、どんな塩がふさわしい塩か、最終章では、その想いを再確認するために、実際に目的の製塩地を訪ねてみました。

塩の自由化で地方には優れた自然海塩や新技術でつくられる塩など、市場から高く評価されている塩も数多くありますが、ここに紹介する「21世紀の塩」は、美味しい塩の系譜から再発見した「美味しく・自然がつくる・身体に優しい塩」のコンセプトを持っている塩を選択したものです。

多くのひとから支持され共感を得てきた、塩づくりの思想や物語をもっているブランドのある塩です。自然がつくる身体に優しい塩は「地球に優しい塩」でもあります。

塩はどれも見た目は同じ白い結晶で、同じような“しょっぱい”塩味です。しかし、塩にも、美味しい塩・不味い塩があります。料理を美味しくする塩、使い勝手の良い塩があります。むかしから使い慣れた塩、身体に優しい塩、塩づくりの知識と、塩の評価基準はさまざまですが、塩の選択の際に最も影響力があるのは、信頼のブランドです。

現在、わが国の塩市場には、いろんな銘柄の塩が売られていますが、塩に関する価値観や魅力のある物語をもたない塩は“ただの塩”になるでしょう。

ひとは地球の生態系の中で生かされています。21世紀は、地球の温暖化、環境汚染、エネルギー資源の枯渇など人類の英知が問われる世紀でもあります。

最終章「21世紀の塩を求めて」の取材に協力してくださった塩づくりの現場の

方々の熱い思いが少しでも表現できれば幸いです

 

□21世紀が求める塩のコンセプト

美味しい塩……..伝統的な平釜の真塩 料理を美味しくする塩

自然がつくる塩…自然蒸発の塩 きれいな海水 オーガニックな製塩 

身体に優しい塩..自然海塩 焼塩 地球に優しい塩 

 

 

1.自然がつくる塩

塩はオーガニック商品

本来、ひとが食べる食物は、自然から採取するという農耕的な性格を持っています。欧米では、古くから塩は自然の収穫物として扱われており、海の状態や天候などの自然条件に依存する塩田の仕事は、農耕的な性格が色濃く反映しています。

塩の結晶を採取することをハーベスト(Harvest)とよび、それに対して人工的に岩塩を掘り出すことをマイニング(Mining)といいます。ハーベストはひとの食べる塩、マイニングは一般的に工業用の原料塩のイメージを帯びています。

岩塩は、19世紀になって岩塩層を掘削して地下の塩水を汲み上げるボーリング技術が発達したことによって大量生産が可能になったもので、それ以来、化学工業の原料塩に使われるようになったからです。

わが国でも、塩田時代の名残から海水を濃縮することを「採鹹(さいかん)」、釜で煮詰めて塩を結晶化することを「育晶」といいます。どこか農耕的なイメージを持っています。

欧米の高級食材店の店頭にはオーガニック認定証のある自然海塩が並んでいますが、日本ではオーガニックは、農薬を使わないで育てる有機農産物をさし、無機質であるという理由で、塩はその対象外となっています。

現在、日本においてオーガニック基準である「JAS規格」を適用しているのは、農産物、加工食品、畜産物、飼料の4種類で、塩は国際基準のコーデックス、国内では日本塩工業会の「安全衛生基準」に準じています。

欧米の塩のオーガニックが認定された背景には、国際資本のグローバル化による塩田の寡占化が進み、食文化に深く関ってきた農耕的な塩づくりが、つぎつぎと淘汰され、開発による生態系の環境破壊から食の安全を守るのが契機となっています。

それを象徴する代表的な天日塩は、フランスのゲランドの塩が挙げられます。

70年代から始まった天日塩の量産化やリゾート開発によって消えかけたゲランドの塩は、塩職人たちの「ゲランド塩生産者集団」の30年にわたる塩田復興運動によって、今日の世界的な有名ブランドが築かれたものです。湿地帯にある伝統的な天日塩田を営み、生態系の視点から、その環境保護と塩づくりの伝統を継承しています。

 塩をオーガニック食品と認めているもうひとつの国、イギリスでは、狂牛病BSEがあいついで発生し、食への深刻な危機感が広まり、店頭から抗生物質をつかわない乳牛から摂るオーガニック牛乳が売り切れるほど、食の安心・安全に対する意識が非常に高い国です。

オーガニックの農薬や化学肥料を抑えた有機農産物のシェアは、欧米では飛躍的に伸びており、オーガニック発祥の地と言われるイギリスをはじめ、フランス、ドイツ、オーストラリア等のオーガニック市場は年々、目覚ましく成長を遂げています

塩は本来、自然から採取した収穫物で、人工的に造るものではないのが世界の常識です。世界で初めてわが国がつくったイオン交換膜方式でナトリウムと塩素を選択的に抽出した電気解析の濃縮塩水と海水を太陽と風で自然蒸発してできる濃縮塩水は本質的に異なった組成のもので、加熱して出来上がった塩の品質が異なってくると考えられます。

21世紀、遺伝子工学の進歩がした現在、塩化ナトリウムの純度の高い人工的な塩が人体にどのような影響を与えるのか、いまだ科学的に解明されていません。自然から収穫する食材に自然から採れた塩でつくる料理こそ、ひとの生命を維持し、エネルギーを生み出す源です。人間も生態系を構成している生き物だからです。

海岸の岩のくぼみに白い塩の結晶を発見した祖先は、海水が太陽の熱で蒸発すると白い塩の結晶になることを自然から学んでいます。海岸近くに水田をつくり、太陽の熱と風のちからで塩の結晶を育てる塩づくりを始めました。

天日塩をつくる自然環境に恵まれない国々では、太陽熱と風によって水分を蒸発させ、塩分濃度を高めたところで釜に入れて煮詰めてつくります。世界各国の伝統的な料理には、その国の食材、気候、調理法にもっともよく合う塩が使われ、その国の料理の味を醸し出しています。塩職人たちの知恵と技が脈々と引き継がれ、伝統的な料理の味を支えてきた、塩は本来スローフードな存在であったのです。

自然海塩、ナチュラル・シーソルトは、いまや世界共通の塩の代名詞になっていまが、残念なことにわが国では、平成20年(2008)4月に施行された「食用塩公正競争規約」の自主規制ルールで、「自然海塩」と表示することが禁止されています。

自然・健康志向のニーズが高まっている現在、自然食品、自然農耕などの言葉がよく使われているのに「自然海塩」が禁句というのは、とても不自然な感じがします。

 

収穫する塩・シチリアの天日塩

イタリアは古い塩の歴史を持った国です。イタリアの天日蒸発による塩田製塩は、初期のローマ帝国のアンカス・マルティウス王がはじめたといわれ、ローマ時代に、ローマの製塩師によってイギリス、フランスに製塩法が伝えられたといわれています。

イタリアの伝統的な天日塩づくりは、いまも南イタリアのシチリア島に生きています。

ここで塩づくりを興したのは、古代地中海の交易で栄えたフェニキア人です。彼らは、地中海の各地に植民市を築いて天日塩田をつくり、地中海を回遊するマグロの塩漬けの交易で栄えますが、紀元前241年のローマとカルタゴの戦いでにシチリア島はローマ領となります。

シチリア島の西端の果てに位置するトラーパニの海岸線は、太陽の眩しい光に包まれた青い海とサリーナ(Salina)と呼ばれる塩田風景が広がっています。北のトラーパニから南のマルサラまで、トラーパニ、モツィア、マルサラの3つの自然保護区になっていて、塩田には、無数の塩の小山が見えます。これがシチリアの誇る天日塩、「サーレ・マリーノ」です。

この地域の平均気温は18度、年間降雨量は約440mlで、日本の1730mlに比べると驚くほど乾燥しています。また夏にはアフリカから吹いてくるシロッコと呼ばれる季節風が塩田の蒸発に拍車をかける、天日塩をつくるのに非常に恵まれた自然環境にあります。  サリーナの伝統的な塩づくりは、三つの天日塩田に海水を移しながら塩の結晶を採取します。最初に塩田の入り江から給水路で海水を引きこみ、二つめの塩田では、太陽の光と風で海水を蒸発させて、海水の濃度が26%近くなるまで濃縮、つぎの結晶池へと移し、夏の強い日差しで塩を結晶化させて採取します。

塩田の底に積もった塩は、塩職人の手によって収穫され、台車に運ばれてかき集められた塩は、積み上げられて塩の山をつくります。

余分な苦汁を取るために雨よけの瓦で覆って野積みして翌年の春まで塩を寝かします。イタリアでは古くから「塩の中の最も乾いた塩は、塩辛く、どんな塩も雨にあたると味がよくなる」といわれ、なかには2年、3年と塩を寝かせます。海のミネラルのバランスが良く、ほんのり甘味のある塩となっています。

シチリアの塩は、大きい粒のグロッソ(grosso)と小粒のフィーネ(fine)の二種類があり、ステーキを焼くときや塩漬け、パスタを茹でるときにはグロッソを使い、振り塩やテーブルソルトには小粒のフィーネを使うというように、イタリア料理ではふたつの塩を巧みに使い分けています。風車の石臼によって挽かれたフィーネは、ハム・ソーセージ、調味料などの食品加工に使われ、イタリアの伝統的な食材の味を支えています。

 

 

自然と共生するゲランドの塩

フランスの北西部ブルターニュ半島のゲランドでは、現在でも先祖代々受け継いできた伝統的な手法で天日塩がつくられています。

紀元前1世紀、ローマ軍に追われたケルト系ブルトン人が海峡を渡ってイングランドから移民して、この地に天日塩田をつくります。ゲランドは、気候的に天日塩の北限であるにもかかわらず、天日塩田に成功します。文字を持たなかったケルト人が、渦巻き模様の絵に、その製塩法を表したともいわれています。

ゲランドの塩は、9世紀ブルボン王朝から現在にいたるまで、塩職人「パリュディエ」によって伝統的手法が継承されています。潮の満ち引きを利用して給水路から取り入れた海水は、五つの異なった塩田を天日に晒しながら移動し、最後のオイエとよばれる採塩池で塩の結晶を待ちます。

毎年、四月から七月にかけて、急激に気温が上昇するときに、水面に最初に浮かんできた塩の結晶を丁寧に収穫します。まるで“花びらを摘むように”採取される初摘の塩は「フルール・ド・セル」(塩の花)と呼ばれ、淡いすみれの香りがして、ほのかな甘味を含んだ塩味がフランスの一流シェフたちに愛されています。

採塩池の底に沈んだ大粒の粗塩は、「グロ・セル」と呼ばれ、料理一般に広く使われています。ゲランドの塩は、穏やかな陽光と風でゆっくりとした速度で結晶が育つので、結晶にミネラルが取り込まれ易く、柔らかで水に溶解しやすい塩です。

20世紀初頭から南仏の地中海沿岸の塩田の工業化、寡占化が進展し、大量生産の時代になると、小規模なゲランドの塩は衰退の一途をたどります。

多くの国々で塩職人の伝統的な塩づくりが市場経済に淘汰された歴史をもっていますが、ゲランドの塩職人たちは、協働組合「ゲランド塩生産者集団」を結成、ゲランドの塩田再興と生態系の自然保護を求める運動を起こしたのです。

観光開発の波がゲランドの自然の生態系を破壊されていくことに心を痛めた若い自然活動家たちが塩田を守る運動に参加し、ここに塩職人の学校をつくります。

若き塩職人、パリュディエたちが塩田の存続と伝統技術の伝承を担っています。

フランス政府は、1992年にゲランドの塩田を特別自然保護地区に指定して、伝統的な製塩技術を文化遺産として保護し、次代に継承することを決めました。

塩づくりは、自然から収穫する有機農業と位置づけ、工業地帯から離れ、農薬や化学肥料の汚染のない環境のもとでつくられています。収穫には木製の道具を使い、洗浄しないで天日干しするなど、すべての製塩プロセスが伝統的な技術で行われるよう厳しく規定されています。

こうした有機農業の観点から採取された塩は、フランスの農林水産省の最優秀食品に与えられる「赤ラベル」を獲得、フランスのシェフたちの厚い支持を受けています。                               *ゲランドの塩写真提供 (株)アクアメール

 

オーガニックなデボラ湖塩

インド洋に面した西オーストラリアのパースから約450km、小型のプロペラ機で内陸部に向けて飛び立つ。やがて眼下に潅木ブッシュと赤土の織りなす大自然の原野に変わってきます。しばらくすると蛇行した河の跡に取り残された池が点在し、微かに茶、ピンク、黄緑、白色に彩られ、地表に咲いた花のような幽玄な世界が広がります。

突然、強い太陽にキラキラと輝く、白銀一色の塩の平原が現れます。縦が20キロ、横10キロの巨大な塩湖、”幻の塩湖”といわれるデボラ湖です。

デボラ湖塩は、太古よりインド洋から潮の泡沫が飛来し、五百万年もの悠久の時間をかけて堆積されてできた塩湖だといわれ、150万年前の地殻変動で河川が出口を失い、低地に取り残された湖です。雨期になると堆積した塩分が溶け、夏の乾期には40度を超す夏の強い日射しと風で水分が蒸発し、塩湖に豹変します。

毎年、自然のサイクルにそって夏の乾期になると2,3週間だけキャンプを張り、大自然が創りあげた塩の結晶を削り取るようにして収穫されます。そして作業が終わると人は去っていきます。「デボラ湖は、神様が全ての塩づくりの仕事をして下さる。人は必要な量だけの天の恵を収穫できる”神様が創った塩”」と語りつがれた由縁です。

デボラ湖塩は、水深が30センチと浅いため、育晶の時間が短いので、海水ミネラルの母液に包まれた小粒の塩の結晶になり、結晶中にカルシウム、マグネシウム、カリウムなどの微量ミネラルを十分溶け込んでから収穫するので、ミネラルバランスの良い、マイルドな塩味がする、“バージンソルト”ともよばれる美味しい塩が出来あがります。

デボラ湖塩は、1944年、LAKE DEBORAH社の現フランク社長の祖父が発見し、家族経営で開発されてきました。

デボラ湖周辺は、いまだに未開の土地で、湖の周囲50キロ四方は、野生の動物が生息するだけで人家や牧場もない、自然環境の保全地区になっています。

湖塩は天然の季節サイクルを利用し、太陽によって塩水を蒸発させることによって得られるもので、天然の季節サイクルを利用するこの生産法は、化学肥料や薬品を一切使わないオーガニック農法と共通するものがあります。

オーストラリアでは、環境汚染のないデボラ湖塩は、[人的、化学的に手を加えられていない天然素材による自然収穫物]という農業作物の観点から、BFA*よりオーガニック塩の認定を取得しています。

ここで収穫された湖塩は、20キロ離れたところにある単線の大陸横断「キイナナ鉄道」で週2回、パース近郊のフリーマントルの工場に運ばれ、そこで洗浄し異物を除去、滅菌乾燥してパッキングされ出荷されます。フリーマントルは、パースから河を下り、スワン湖を経て海に出た港町で、英国風の家が軒を連ねた表通りでは、紫の花が咲き乱れるジャガランテーの樹の下で、人々が午後の紅茶を楽しんでいます。

インド洋の涼しい潮風を浴びると病気にならないといわれ、地元の人たちは、この潮風を“フリーマントルのお医者さん”と呼んでいます。 *BiologicalFarmersofAssociationの略

 

クリスマス島の塩

ハワイのホノルルから飛行機で6時間、ハワイから南に2,000kmの赤道直下にぽつんと紺碧の海に浮かんでいるのがキリバス共和国に属する世界最大のサンゴ礁の島、クリスマス島です。

1777年のクリスマス・イブに、冒険家キャプテンクックが、航海中にこの島を発見したことに由来し、「クリスマス島」と命名されたものです。  キリバス共和国の東に位置するクリスマス島は、7,200km先のガラパゴス諸島までひとつの島もなく、島は数百にも及ぶラグーン(礁湖)があり、サンゴ礁にはいろんな魚が群れをなし、地上最後の楽園と世界中のダイバーから注目されている島です。また、多くの魚が生息している、この島には500万羽をこえる海鳥が棲みつき、バードウォッチングの天国です。

クリスマス島には世界で最も汚染のないきれいな海水が流れています。地球の自転によって悠久の時間を経て、南極の氷が徐々に移動し、それが海流により赤道直下の海上に溢れ出たものだと考えられています。

南極の深海で蓄えられてきた豊富なミネラルが、多くの生物を養い、最後の楽園とよばれる生態系を守り続けているのです。クリスマス島の塩づくりは、きれいなサンゴ礁の海水を塩田に引き入れて、自然の太陽と貿易風の力だけで、じっくりと3ヶ月かけて塩の結晶を待ち、島民の手作業で、年に3回ほど収穫されます。

まるで、クリスマス・イブに降り注ぐパウダースノウのように白く、塩角のないまろやかな塩味のする貴重なナチュラル・シーソルトです。

古くから島民に伝承されてきた塩づくりは、海水を平らな箱に入れて、砂浜で自然蒸発して塩の結晶を採取する小規模なものだったといわれ、こうした製塩法は、東南アジアの島々でよくみられるもので、その由来は、中国の清代中期(1736-1820)に舟山列島の岱山で王金邦という人物によって考案されたといわれる、「板晒法」です。

それは、長さ2.4m、幅1mの杉の板を用いた木の皿をつくり、その中に海水を張って、天日で蒸発させて結晶をつくります。

 本来、舟山列島は気候的に恵まれていないので、釜を焚いて塩をつくっていましたが、島には燃料にする木々が残り少なくなったのが、天日に晒して塩を採る板晒法が生まれた動機です。雨が降ったときには、塩皿を積み重ねて二人で担いで持ち運ぶことができるという知恵が生きています。

浙江省ではじめられたこの板晒法は、舟山列島の島々から、台湾、ベトナム、東南アジアへと伝播され、クリスマス島にも伝来されました。熱エネルギーを使わない、海を汚さないで自然のちからでつくられるクリスマス島の塩は、まさに地球環境に優しい「エコソルト」といえます。

 

自然と共生する生活

今日、地球規模の温暖化、大気汚染、サンゴ礁の海洋汚染など、自然環境の破壊確実に進行しており、地球の生態系のバランスが崩してきています。そのバランスを侮った酬いが、今、我々身体に襲い掛かっています。化石燃料を燃やし続ける工業生産、自動車の排気ガスで大気中の炭酸ガスが充満し、地球上の大気の温度は上昇、南極の氷河が溶けて海面が上る、地球の温暖化が加速しています。

レスター・ピアッソンは、その著書『開発の危機』の中で、生産技術と化学と経済開発は、それ自身が目的なのではなく、よい環境の中で人々により良い、豊かな生活を与えることに役立つ限り、正当化され追求されるべきもので、それを忘れるならば、将来、進歩は短慮で浪費的破壊的なやり方で天然資源を搾取し、環境を汚染させることによって、無益で危険なものになりかねない。それは、崩壊と死につながるのである」と、このまま地球環境を破壊すれば地球の生命を絶つだろうと語っています。

2014年4月開催の国連気候変動に関する政府間パネル(IPCO)の報告書によれば、温暖化はここ数十年、すべての大陸と海洋で生態系や社会に影響を与えていると断じています。数十年、気温上昇が続きくようだと、近未来に洪水や熱波が都市を直撃し、水不足や食料不安が深刻になる、温暖化をおさえるには、石油依存体質を改善し、再生エネルギー社会への転換を急ぐよう警告しています。(東京新聞社説2024/4/3)

地球環境の汚染は、いのちを支える食を直撃します。農薬や食品添加物、工業排水による水質汚染、そして狂牛病BSE、遺伝子組み替え、環境ホルモンなど、地球規模で食の安全性の問題が問われています。

脱成長社会への道を構築することが、人類生存の緊急の課題です。そのためには、1人ひとりができることは、生活の価値観やライフスタイルを見直し、自然との共生を大切にする、脱成長への道を模索することが変革のエネルギーとなってきます。

スーパーでは、無農薬の野菜、生産者の顔が見える安心な食材が好まれ、消費者の厳しい目が農産物の生産者や食品加工メーカーに向けられ、こうしたオーガニックなライフスタイルを志向する消費者層がマーケティングの変革を促しています。

身の回りの衣・食・住の商品を選ぶ基準が、工業的に量産された商品の利便性、や価格の評価で購入するのではなく、自分らしい生き方に最もふさわしい思想を持った商品を選ぶ購買層が増えています。

米国の市場では、こうした生活価値観を持った新たな消費モデルは「ロハス*」と呼ばれ、オーガニックなライフスタイルが消費トレンドの潮流となってきています。

ロハスとは、Lifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字をつないだアメリカ生れの言葉で、「健康で持続可能な暮らし方」と直訳されます。ロハスには地球環境に配慮した持続可能な自然環境を願い、物理的な豊かさを求めないで自分と家族の健康を願う-そんな生き方が生活の価値観となっているライフスタイルです。*

企業においても、地球環境や働く場に配慮し、地域社会に貢献しながら安定した利益をめざす「社会的な責任(CSR)」を志向する経営が求められています。

米国オーガニック市場では、自然食品の流通大手「ホールスフース・マーケット」が米国、カナダ、英国に390店舗を展開、年間売り上げは110億ドルを超える勢いで成長しています。

 

塩田が蘇(よみがえ)るバリ島の塩

インドネシアのバリ島には、わが国で昔あった揚げ浜式塩田が、いまも生きているという話を聞いて、乾季がはじまる5月にガルーダ航空でバリ島を訪れました。

 塩田の仕事は、早朝から始まると言うのでホテルで一泊し、翌朝、タクシーで南部のクタにあるクサンバという漁村にむかいます。車窓から青々とした水田の風景を眺めながら走ると、間もなく椰子林に囲まれた集落に着きます。村の入り口に精霊が宿るという大きな樹木のある祠があり、ここを抜けると、突然目の前にまぶしいほどの青い海が目に入ってきます。

海岸沿いの平坦地に火山灰の黒い砂が敷かれた塩田とヤシの葉で覆われた二軒の小屋があり、すでに海岸では、塩職人が海水を汲みあげたふたつの革袋を天秤棒に担いで浜辺の塩田に運んでいる姿が見えます。塩田にあがると、天秤棒を左右に揺すって、袋の海水を霧のように振りまく。こうした作業を何回か繰り返し終えると、お昼まで天日で砂が渇くのを待つのです。                     

納屋の中には、塩田から運ばれた砂が木箱に入れられ、上から海水を注いで塩分を溶かし、砂の入った木箱から樋をとうして流れ出る濃い海水を浴槽ほどある石の器に溜めます。ここからバケツで運ばれた濃縮塩水は屋外のバロンガンとよばれる椰子の幹をくり抜いてできた深さ10cmほどの浅い蒸発皿に移し、太陽に晒して塩が結晶するのを待ちます。

竹籠に入った採りたての塩は、生成りの色をしていて、手触りが湿っぽく、舐めると甘さが残る塩です。一瞬、昔のわが国の塩田時代の粗塩がバリ島の地で蘇ったと、そんな想いにかられます。この村の塩は、家族単位で昔ながらの伝統的な手法でつくられ、朝から太陽が沈むまで作業しても天候に左右されるので、塩が採れる量は、一日平均約10kgから20kgと少なく、先祖代々、海と共に細々とくらしてきた浜の塩職人は、海にひそんでいる神々に供物をささげ、生活の糧となっている海の恵みを「神の塩」と感謝をこめて祠に神饌を捧げます。

バリ島には東部のカランガサンをはじめ、寺院の遺跡の近くにかならず塩田があり、塩が宗教と深く関わっている、バリ島は神々の島といわれる由縁です。

                          *バリ島の揚げ浜式塩田とヤシの木の蒸発皿 筆者撮影

 

ロハスな塩・バリ島ビッグツリー

バリ島にはもうひとつの洗練された塩があります。オランダの植民地だったころに、オランダ人が伝えた天日塩を溶解再結晶した精製塩です。

鱈や鰊の塩漬け魚の交易で栄えた16世紀のオランダは、フランスのレ島やゲランドから輸入した灰色のベイソルト(湾の塩)を溶解し、釜で焚いて白い塩にする技術で、魚の塩漬けにつかう塩の輸出で成功した塩の大国です。ゆっくりと溶ける清潔な海塩は、魚が変色し細菌の繁殖で腐敗するのを防ぎ、最適な塩でした。

近年、バリ島を拠点に、インドネシアの島々の特産品である塩、胡椒、コーヒー豆ココナッツの砂糖など、伝統的な産物を保護育成する製塩会社が誕生しています。

インドネシアの伝統的な食文化を守っている零細農家の貧困を救済するという動機をもって設立されたオーガニック食品の会社です。

伝統の農業を受け継ぐ若い人たちを育て、島で栽培・収穫される農産物を欧米などの先進各国の市場に向けてビジネスを展開しています。

BTF社が、クサンバなどの零細農家がつくった天日塩を買い取り、淡水で溶解し、温室で再結晶します。まぶしい太陽光が降り注いでいる巨大な全面ガラス張りの温室には、天日塩を溶かした濃い塩水が入れられた浅い蒸発皿が無数に並んでおり、一瞬メガネが曇るほど湯気に包まれ、汗が噴き出てくる暑さです。

蒸発皿の表面には、結晶が始まったばかりの結晶の種が浮いています。収穫された塩は、青いタイル張りの作業台に積まれ、五種類の塩粒のサイズに仕分けしてから梱包します。塩の結晶形は、透明なピラミッド型をしており、噛みしめるとカリカリと音がする独特の歯触りがします。

塩を溶かすのに屋外の塔から飲料水が蒸発皿に注がれます。その塔にはホテルで売っていた飲料水と同じマークだったので、その訳を聞くと、日本の取引先から、飲料用の水を溶かしてみたらどうかというアドバイスに従って、粗塩を溶解するのに使用しているとのことです。水の塔は、BTF社の品質保証を象徴する広告塔の役割を立派に果たしています。            ↑ビッグツリーファームズ社(BTF)製品

 

2.黒潮の恵み

黒潮は日本の塩の源流

黒潮は、フィリピン諸島の東シナ海を北上して太平洋に入り、その後、台湾石垣島の間を抜け、東シナ海を経て九州の南西で方向を東向きに転じ、トカラ海峡を通って日本の南岸に沿って流れる海流です。日本海流とも呼てれる日本近海を流れる暖流で、日本南岸に沿って東に流れる海流を黒潮続流と呼ばれ、黒潮の一部は枝分かれして対馬海峡を通って日本海に流入して対馬海流となります。

黒潮は、透明度が高く、海の色は青黒色をしていて、これが黒潮の名前の由来となっています。西日本の漁民の間では、真潮、本潮の名で呼ばれ、漁労するのに、黒潮がいかに重要であるかを表しています。多くの魚類が北上して、プランクトン豊富な親潮とぶつかる潮目で成長します。脂がのったマグロ、秋の下り鰹が旨いのは、親潮の充分な栄養を摂ってまるまる肥っているからです。

黒潮の流れるルートします世界有数のサンゴ礁が点在しています。サンゴの繁殖に適しているは、水温25~30℃ほどの温暖で透明度が高い、浅い海域に出現します。 透明度が高い海水ということは、プランクトンが少なく貧栄養であることを意味しますが、サンゴの体内には光合成を行う褐虫藻が棲みつき、その栄養分をもらって共生しています。海水中の二酸化炭素カルシウムを取りこみ、炭酸カルシウムを主成分とした骨格をつくります。サンゴのすき間は小さな生物の隠れ場所に都合がよく、それらを捕食する大型動物も集まってきます。さらにサンゴ礁のまわりには砂浜や生物の繁茂する藻場が各所に形成されるので、様々な生物や魚類の稚魚が生息す る絶好の環境がつくられます。サンゴ礁はきわめて多様な生物が、高い密度で生息している、生態系を守るのに必要な貴重な存在です。また、黒潮の回流する沖縄諸島、奄美、対馬の南西諸島から伊豆諸島にかけての島嶼部は、昔から良質の塩の採れるところでもあります。

透明できれいな黒潮は、海水ミネラルが豊富で、海面の温度は夏季で30近く、冬季でも20℃になることがあり、他の海洋よりも塩分濃度が高いことが、塩づくりに適しているといえます。黒潮の流れる沖縄や奄美諸島では、塩を真塩(ましゅう)とよばれ、黒潮の真潮から採れる塩を言い表しています。

 

 

黒潮は文化を運ぶ塩の道

黒潮の海路は、古代中国の揚子江流域から、わが国に稲作をもたらした弥生文化が生まれた源流です。中国、朝鮮の沿岸から黒潮にのってきた弥生人は、稲の水耕栽培と一緒に製塩技術を身につけて渡来したといわれます。

また黒潮は、仏教の伝来や遣唐使の派遣など、中国との交流の「文化の道」でもあったのです。後世に中国の進んだ製塩法を日本に伝えたのは、遣隋使や遣唐使の僧たちだったのです。734年遣唐使平群広成が帰国の途上、難破して安南に漂流し、その後、渤海経由で帰国しています。同じように753年には遣唐使藤原清河阿倍仲麻呂が帰国の途上漂流し、安南付近に漂着したように東シナ海から南シナ海に南下する海流と季節風の関係でこのような航海ルートができたものです。

琉球は古くから、東南アジア、中国、朝鮮と日本を結ぶ国際交易の拠点であり、黒潮と季節風に乗って、古くから中国や東アジアの人々との交流があります。  

呂宋(フィリッピンルソン島)との海洋交易を通して、わが国の経済や文化に大きな影響を与えています。戦国時代、朱印船などの交易が行われ、呂宋との貿易で納屋助左衛門などの堺の商人たちに巨万の富をもたらしました。

わが国への製塩伝来に関して、塩を焚いた塩浜も長い歳月の間に風化し、古代の塩づくりは歴史の片隅に埋もれていますが、留学僧によって伝えられた中国の天日製塩は、気候的条件に恵まれないわが国に合わせて釜を吊るして竈で焚く製塩法が工夫されたと考えられたと想像します。瀬戸内海の塩田近くの寺社には、7世紀に入浜式塩田を伝えたという堺の唐僧行基の石碑が祀られています。

塩産地を訪ねて現地にいくと、中国福建と琉球列島・西南諸島・瀬戸内海が黒潮で結ばれ、さらに黒潮をさかのぼり、海南島、ベトナム、バリ島に古代中国から伝来した塩づくりの共通点をしばしば発見することがあります。

 

沖縄「美(ちゅ)ら海の塩」

沖縄の海を島の人々は“美(ちゅ)ら海”と呼んでいます。青く澄んだ珊瑚礁の海にはさまざまな生命をはぐくむ生物の宝庫。この美ら海という言葉には、沖縄の人々の豊かな海の恵みへの感謝と誇りがこめられています。

温暖な黒潮を“真潮”といい、そのきれいな海水から塩職人たちの手によってつくられるシママース(島の真塩)は、沖縄の人々の暮らしに深く溶け込んで、沖縄独自の食べものの文化を育んできました。

わが国の塩業史では、沖縄・西南諸島の塩作りの歴史について、史実が極めて少ないですが、沖縄に本格的な塩づくりが発祥したのは、『湧川製塩伝説』によれば、12世紀、源為朝が伊豆の大島から逃れ、今帰仁の運天港に漂着し、湧川村の方法を浜の老人に製塩法を教えたという伝説があります。

一方、1609年、薩摩の島津義久が琉球侵略を命じた折、運天港に上陸した年寄りの僧侶が、島民が海水で味付けするのを見て、竹の笊に泥を塗って天日で乾かし、塩鍋をつくり、海水を天日で晒して塩をつくる方法を村人たちに教えたという伝説が残っています。当時、鹿児島湾や天草の沿岸では、直径150㎝ほどの竹篭に石灰、砂を苦汁で練った粘土で塗り固めた「網代釜」が使われていましたが、竹富島の民具博物館に展示されていた大きな竹籠をみて、網代釜を連想した覚えがあります。

沖縄における塩田は、1694年に薩摩の弓削次郎衛門が干潟や自然浜を利用して入浜式塩田を教えたのが始まりとされ、泊の塩浜から琉球諸島の島々に伝播していったという史実があります。

四方を海に囲まれた沖縄では、泊、泡瀬、豊見代、美里、具志川、今帰川など、各地にある入浜式塩田の土地の名をとって、泡瀬マース、泊マース、与根マースなどとよばれ、戦前は本土にも移出した良質な塩がつくられていました。                    

太平洋戦争の戦火で200年の歴史を持ち、島の塩の消費量の75%を占めていた泡瀬の塩田と製塩工場が焼失しましたが、戦後すぐに塩業組合、沖縄製塩が設立され、念願のシママースが復興しました。島民のシママースへの強い思いがその原動力になったのです。

↑写真 沖縄泊塩田跡 筆者撮影

                          

シママース復活の「青い海」

島民の間から、「ヤマトマース(本土の塩)はおかしい」という疑問の声があがり、シママース復活の期待が一挙に盛り上がってきたのです。マーケットでは専売の並塩を海水で炊き直した密造塩が飛ぶように売れたといわれます。

しだいに沖縄の海水を使った塩田を復活させて沖縄の食文化を守ろうという機運が高まってきます。こうした島民の思いを背景に、自然食のCI協会の知念隆一氏を中心にした有志が集い、シママース復活に立ち上がります。それが現在の「青い海」です。 

政府にくりかえしシママースの製塩を求めて陳情しました。そして昭和49年(1974)に日本専売公社から「特殊用塩」として、公社が輸入する天日塩の使用を条件に、海水で溶解し再結晶する再製塩の生産が認められます。

青い海は、沖縄の製塩工場「沖縄1号」として許可され、7年ぶりに宿願の沖縄の塩、シママースが再現しました。

1997年4月に塩専売法が廃止となり、新たな塩事業法に変わり、海水から直接塩をつくることが可能になり、青い海の設立当初からの念願であった沖縄の海水100%を原料にした自然海塩が誕生したのです。

糸満の沖合2000mのきれいな海水を引き込み、国内最大の平釜で一週間、じっくりと時間をかけて煮詰め濃縮する、塩本来の味をつくり上げていきます。こうしてできた粗塩は、杉の木箱に入れて寝かせ、にがりを切って、しっとりとした昔ながらの平釜仕込みの塩に仕上げられます。

本土でも同時期に塩田復活運動が起きていましたが、それは純度の高いイオン塩の人体への安全性が論争の焦点になったのに対し、沖縄では「味の質」を問う、沖縄の食文化を守る「味の自決権」を主張する色彩が強い復活運動になっています。

今日では、塩の自由化により、琉球諸島ではミネラル豊富な美の海の海水を使い、昔ながらの平釜焚きの塩、海水を噴霧してつくる塩など、多彩なシママースが塩市場を賑わせています。

沖縄の海水を100%原料にした自然再製塩実現の道を開いたのは青い海です。「沖縄の豊かな食文化を支える」という塩の普遍的な価値を提唱する「味の自決権」の精神が、今も脈々と青い海に息づいています。

 

身体に優しい「いのちの塩」

“いのちを守る塩” 自然海塩を黒潮のきれいな海水から再現しようと、ひとりの塩づくりの匠が挑戦しました。粟国島に「粟国の塩」を創業した沖縄海塩研究所の小渡幸信所長です。昭和50年(1975)、自然塩復活運動の中心的な存在であった「食用塩調査会谷克彦(故人)が伝統的な製塩法の研究・開発に沖縄に移住したとき、読谷村都屋の用地700坪を借り、揚浜式塩田をつくり、彼と一緒に理想の塩づくりをしていた経験があります。

その後、谷は熱エネルギーを使わないタワー式の製塩による自然海塩をつくるために沖縄を去り伊豆大島に移りますが、小渡氏はひとり沖縄に残り、タイル業を営みながら粟国島に風力による自然蒸発する立体式タワーを実現したのです。

塩づくりに自然海塩をつくるには、なによりもきれいな海水が必須の条件だというこだわりをもっていたので、沖縄の島々を探し求めた結果、那覇から北西へ約60キロも離れた珊瑚礁のきれいな海水が採れる粟国島を選んだ理由です。

小渡氏は、すでにこのときタイル職人の世界では名声を博していましたが、それを捨ててまで海づくりを始めた動機は、若いころ体が弱かったので自然食の療法をしていた過去があり、身体によい自然海塩への強い思いがあったからだといいます。

塩づくりの作業場に一歩踏み込むと、白いタイルの清潔感が溢れ、タイル職人だからこそできた設備だと感じます。隣のブロックを積み上げた高さ10mのタワーの内部をのぞくと、水滴が太陽の光でキラキラと輝いて降り注いでいます。

15000本もの竹の枝が逆さに吊るされ、海水をポンプでタワーの上まで汲み上げ天井から流すと、竹の枝を伝わって落ちる海水は、タワーを吹き抜ける海風で蒸発し、濃縮していきます。

風と太陽熱で7日間、自然蒸発させて海水の六倍ほどの濃度になると、平釜に入れて15時間かけてゆっくり薪で炊きあげるのです。普通、小規模な平釜では、重油がつかわれるケースがありますが、粟国の塩は、薪でじっくり焚かれます。

薪の炎は、なべ底をなめるように広がっていき、その遠赤外線の効果が結晶の育ち具合や味に微妙に影響するからだといわれます。

濃縮塩水の沸いてくると、平釜に向かって塩の結晶を育てるように、木の柄で休みなく丹念にかき混ぜる作業を黙々と続けます。浮き上がってくる石膏などを取り除かれた塩の結晶が釜から採りだされ、木箱に入れて7日間かけて脱水・自然乾燥してできあがります。やや湿り気を帯び、わずかに木成り色をした塩で甘味のある塩で、塩づくりでとくに気を配っているのは、にがりの度合いだといわれています。

小渡所長が敬愛する谷は、「塩の生命は海水に含まれている多くの微量ミネラルのバランスにあり、専売のイオン交換膜の塩は、塩に似て非なるものだ」という言葉を遺し、それを常に心に刻んで塩づくりをしているとのことです。

小渡氏は「いのちは海からという言葉は、私の塩づくとりの原点です。自然に感謝しながら、できるだけ海水に近いミネラルバランスをもった自然海塩をつくっていきたい」と熱く語ってくれました。

「海は身体の中でいのちの海となる」。粟国の塩のパンフレットに書かれている一節です。長い歳月にわたり塩づくりを支えてきたのは、身体に優しい塩への熱い思いであったのではないでしょうか。わが国の「美味ししい塩の系譜」を伝承している、塩の歴史に刻んでおきたい伝説の塩職人です。  *写真 粟国の塩 伝統的な平釜焚きする小渡幸信所長

 

サンゴ干潟でつくる塩

わが国の塩づくりは、多雨多湿のために塩田で海水を濃縮してから釜で焚くという製塩法ですが、明治のころの塩業史には、奄美群島の島々では海岸の岩礁の窪みを利用して太陽熱と風で蒸発させ、濃縮された塩水を各家に持ち帰って煮つめて塩を採取していたと記されています。

鹿児島から南へ約468kmの洋上に浮かぶ徳之島の空港に降りると車は、南の突端の海岸に向かいます。車窓には広大なサトウキビ畑の風景が続きます。アマミノクロウサギなどの天然記念物が生息する豊かな自然環境に恵まれた島です。

徳之島といえば「闘牛の島」として知られていますが,約500年の歴史を持つこの島の闘牛は,砂糖地獄と呼ばれる労働に苦しめられた農民が,苦労してつくったサトウキビを税として納めることができたのを祝ったのが祭りの始まりだといわれています。

サトウキビ畑を抜けると、標高417メートルの犬田布岳から、南の海岸線に向かってゆるやかな坂を降りていくと、青く澄んだ海が視界に入ります。小高い海岸には珊瑚礁が隆起してできた石灰岩の岩礁が見えてきます。

潮の飛沫を浴びたサンゴ礁の干潟には、太陽での潮だまりが鏡のように日差しを反射してキラキラ輝いています。ここにぽつんとひとりの婦人が黙々と潮だまりの海水を汲み上げては、周りの岩にかけている姿があります。

日本唯一のサンゴ干潟の塩づくりを復活させた水本美枝子さんです。

太陽で熱した岩に海水をかけ、水分を蒸発させて徐々に海水の濃度を高めながらひとつの潮だまりに濃縮された塩水を集めているのです。それが終わると、ポンプで汲みあげ、ご主人の待つ高台の釜屋に運ばれ、サンゴ干潟で濃縮された海水は、畳一畳ほどの鉄の平釜で、琉球松の薪を使って焚かれます。

三時間ほど炊いていると、海水が粥のように泡立ってきます。それを丁寧に木のヘラで攪拌しながら、次第に塩の結晶ができてくるのを待ちます。

釜を焚きながら話してくれたご主人の話では、むかしは、この辺りでは、どこの家も釜を持っていて、サトウキビづくりのかたわらで塩をつくっており、晴れた日には村人総出で海岸に出てサンゴ礁の干潟で塩焚きしていたといいます。

祖父の時代には、岩の窪地にムシロを敷き、その上に海水を汲んで注ぎ、ムシロを踏んで搾り出された濃い海水をつくり、天日に晒して塩を採取していたといいます。

塩ができあがると海側の住民は、山側の農家に持っていって農作物を入手し、塩で粒味噌作りや豚の塩漬けを仕込んでいたといわれます。村の人はサトウキビを煮つめて黒糖をつくっていたので、だれもが塩づくりがでたとのことです。

いまでも、この村に四人ほど塩づくりのできるひとがいるので、ここの塩がもっと売れるようになれば黒砂糖と塩をつくって町の収入にしたいと語っていました。

釜のそばで、お茶うけの落花生の味噌漬けやパパイアの炒めものを食べながら話しているうち、夕方近くになって塩が炊き上がってきます。釜からほかほかの結晶を布に包んで吊るし、水分とにがりを落し、明日の朝に屋外で天日干しをします。

南国の強い太陽の光に白くキラキラと輝いたふんわりとした塩が出来上がります。

水本美枝子さんが珊瑚干潟の塩を再現した動機は、かつて父親がつくった本物の塩の味が忘れなくて塩づくりを始めたといいます。きれいな珊瑚礁の海と太陽の光でできる自然の恵みの塩は、まさに真塩、徳島の方言で「まぁん・ましゅ」といいます。

 

海南島の「千年古塩田」

南国の琉球列島から西南諸島の古代の塩づくりが記された文献はごくわずかです。広山尭道著『塩の日本史』では、古来より、薩摩、大隈の海岸から西南諸島の一帯の島々では、海岸の岩の窪地を利用して、天日塩を採取していたと記されています。

久米島、沖永良部島では、海岸の窪みを利用して、太陽熱で濃厚になった鹹水を各家に持ち帰り、半天日塩を鍋で煮詰める、与論島では乾燥した藻を岩の凹部に浸し、濃縮した塩水を天日干しして塩の結晶を採取していたと伝えられています。

粟国島では、昔は潮の引いたサンゴ礁の岩の窪みは、それぞれの家に振り分けられており、野菜の漬物や豆腐をつくるのに使われていたといわれます。

年に一度、豚の塩漬けを作り、豚の脂が沖縄独特の料理を生んでいます。

世界共通の天日塩の最も原初的な製塩法は、ソルトパン(石皿)です。沖縄の島々や西南諸島に伝わる石皿の天日塩のルーツは、黒潮にのって中国海南島から渡来人とともに広がっていったのではないかと想像し、訪ねることにしました。

上海から飛行機で南下、海南島の南端の三亜空港に着陸すると、豊かな緑の山峰に南国の明るい太陽が降り注ぎ、気温は冬でも30度、温暖な亜熱帯の海洋性気候で、澄んだ空気と紺碧の海の景色が美しい島です。                          

空港から車で白砂のダン州湾の海岸線を見ながら東に向かってしばらくすると、海南島の西部に位置する小さな漁村、塩田村に着きます。海辺に並ぶ火山岩に彫られた硯の形をした石の池が点在する風景が見えてきます。

村には、石を削って作られた石皿が一面に置かれ、その表面に白い塩が付着しているため、遠くから眺めると、まるで雪の庭のように見えます。            ↑写真 『人民画報』 2001/11 最後の古塩田 

 

1200年前の唐朝末期からここに福建人が移り住むようになってなら、釜を使う代わりに石を削って浅い石皿をつくり、火山岩の池から濃い海水を引き入れて、太陽に晒し、塩をつくる天日塩を開発したといわれています。

満潮で海辺の火山岩にできた池に潮水が溜ると、木製の鍬で砂泥をかき混ぜる作業を始めます。塩水が天日で濃縮されると、それを収集するための塩の池があり、石皿に入れる前に、土地に自生する植物の葉を使って塩分の濃度を判断、それから石皿の底に竹で編んだムシロを敷き、その海水を石皿にそそぎ、太陽熱で蒸発させて塩の結晶をつくります。 中国では「晒塩法」とよばれ、天日塩田の源流といわれる貴重な古塩田です。   乾燥した地中海では、浅瀬をせき止めて自然蒸発して塩を採ることから、ソルト・パン(塩鍋)とも呼ばれていますが、海南島の石の塩皿を眺めていると、初めてひとが海塩を発見したのは、海辺の岩場の窪みに溜った潮が蒸発した塩だったのではないだろうかと想像されます。                   

 

 

環境に優しい「浜御塩えこそると」

日本海の西の入り口にある対馬は、九州と朝鮮半島の間に位置し、南北82km東西18km面積は約700km2と長崎県のなかで最も大きな細長い島です。

日本海に流入する対馬海流は、豊富に魚が獲れる漁場となっていますが、最近では地球温暖化が対馬の漁業に大きな影響を与えているとの話です。対馬の沿岸部には、小規模なサンゴ礁が分布していますが、2007年(平成19年)に対馬のサンゴ礁で白化現象が確認されています。南方系の魚が増え、海藻が減ってきたことで、アワビ、サザエ等の貝類や、魚も減少するのではないかという懸念する声が上がります。

ここ対馬に地球環境保護をめざし、独自の塩づくりを進めている製塩会社があります。「浜御塩」で知られる㈱白松です。

これまで使われてきた化石燃料の重油に替えて、豊富な森林からでる木質チップをバイオマス・ボイラーで熱エネルギーに変換した燃料を使い、平釜焚きの自然海塩をつくっています。

島の全面積の89%が美しい森林で埋め尽くされており、森林の間伐材の有効利用が地元の林業の経済的支援につながり、地球温暖化ガスの原因となる二酸化炭素の大幅削減に貢献し、また森が整備されることによって豊富な土壌の養分が海に流れ、魚や海藻を守る自然の好循環が始まるからです。こうした地球の環境保護し自然と共生する、地球環境に優しい塩を「エコソルト」とよんでいます。

白松の「浜御塩えこそると」の製塩法は、伝統の平釜焚きに必要な海水濃縮の効率を高めるのに二つのプロセスを経て、濃厚塩水をつくっています。

はじめにきれいな海水を逆浸透膜*で塩水を濃縮し、さらに太陽の熱と風のちからを利用したネット噴霧式の天日蒸発装置で濃縮する、ふたつの濃縮工程によって、結晶化に必要な熱とネルギーを大幅に省力化することができたのです。

そして濃縮塩水を平釜に移し、自然エネルギーのバイオマス燃料を使い、塩職人の手でじっくり時間をかけて塩の結晶化の作業が行われます。

江戸から明治にかけて、塩の一大生産地であった瀬戸内海では、松葉や薪で平釜焚きと併用して、燃料費の節約のため石炭も使っていましたが、石炭や重油の炎は、直線的な強火で焚かれるために、堅くて荒い塩になりがちになります。 

それにくらべて、薪の炎は釜底全体にひろがり、きめ細かな白い塩の結晶に仕上がるので、明治になっても松葉焚き石釜が使われていました。白松の浜御塩には、わが国の美味しい塩の系譜が21世紀に引き継がれています。

㈱白松は中国の塩田天日塩「浜菱」で知られ、イタリアの天日塩などの輸入をてがけており、塩の品揃えに一貫した思想を持っています

白松のホームページに「ミネラル還元運動の推進を通じて、より多くの人を幸せに!」という白木桂介社長のユニークな経営理念が掲げられています。

「45億年前に地球が誕生して以来、ミネラルは循環しています。動物や植物は海から得たミネラルと共に成長し、やがて土に戻り、雨と共に川に流れ、海に戻ります。

(中略)私たちは、海のミネラルを陸上に還元することにより、単に食品業界にとどまらず、農業、畜産、林業などに役立てていきたいと考えています」と語っています。

現在、対馬の浜御塩工房でつくられている「浜御塩えこそると」は、自然・健康志向の消費者やマクロビオテックの人々のブランド塩となっています。

 

□逆浸透膜による海水濃縮装置

逆浸透膜は、キメの細かいフィルターで、海水を高圧ポンプで押し込むと、粒子の細かい水がフィルターを通り抜け、粒子が大きいナトリウム、マグネシウム、カリウムといった塩類は、ほとんどフィルターを通り抜けられない。それによって、フィルターを通った水を取り除き、6%程度まで濃縮された濃い海水をつくる装置です。

 

塩の思想がいきる「海の精」ブランド

黒潮が流れる伊豆大島を自然海塩の生産拠点にした「海の精」は、四半世紀にわたって太陽と風のちからで天日の自然海塩をつくる試験を重ね、ついに海水を風の力で濃縮する「噴霧ネット式」の採鹹と太陽熱を利用した天日ハウスで塩の結晶化を実現、念願の純国産の天日塩づくりに成功しました。

平成9年(1997) 旧来の塩専売法に代わり新たな塩事業法が成立すると、「海の精」は特殊製法塩として、念願の自然海塩の製塩と販売ができるようになりました。

海の精は、竹とネットのタワーから散水して濃縮海水をつくり、完全天日塩と平釜焚きの二つの塩をつくっています。前者を「青ラベル」、後者を「赤ラベル」と呼んでいます。

天日塩の青ラベルは、摂氏50度のガラスばりの温室で、自然蒸発させ、夏の期間は2週間、冬は一か月ほどで塩の結晶を採取します。商品名「海の晶ほししお」で市場にでています。

釜炊きの赤ラベルは、17%の濃縮塩水を丸型の平釜に入れ、蒸気を利用して加熱蒸発し、撹拌しながら丸一日かけて煮つめます。

濃度が31%になると火を止め、採塩樽に移し二晩寝かして乾燥します。「海の精あらしお」のできあがりです。

↑写真 竹とネットのやぐらの噴霧ネット式の採鹹

海の精には、ほかの製塩会社にはない大きな特徴があります。それは自社の自然海塩を使って、味噌・醤油、梅干しにはじまって、みりん、塩麹、福神漬けなど発酵食品やハーブ、昆布だしの香味塩など、無農薬、無添加の伝統的な和食の食材の品揃えです。そのために、次のような原則に基づいて、同じ思想をもった食品加工の老舗と共同開発が行われています。

食材はすべて国内産を使用、農産物は無農薬の有機栽培、遺伝子組み換え食材は使用しない、水産物は近海の自然ものを使うという条件を設けています。食品加工では、化学調味料はもちろん、化学合成した添加物や精製したもの、汚染物質の影響のある食材は一切使わないという厳しい原則を設け、オーガニックな食材の使用と伝統的な加工法に徹しています。

現代の一般家庭の食卓には、高純度なイオン膜塩や精製塩で調味され、化学調味料、保存料などの添加物を使った加工食品が溢れています。

海の精が自然海塩を中核にした商品開発をする背景には、塩は海のエキスであり、スピリットとエネルギーの根源である「いのちの塩」という塩の思想に基づいたマクロビオテックがその源泉になっています。

健康をめざした身体に優しい塩は、地球にも優しい塩です。海の精では、ガス会社とタイアップして「エコクッキング教室」を開催し、食を通して自然環境に気づかった料理法や伝統的な和食の継承をめざす食育などの社会活動を行っており、海の精の企業姿勢が信頼のブランドを築いています。

 

4.古代の塩の再現

湿気が生んだ焼塩の知恵

乾燥した地中海沿岸の国々では、塩は永遠に変わらないものの象徴ですが、東洋の多雨多湿のモンスーン地帯では塩は溶けるものという、独特の塩に対する感性があります。塩を保存するために粗塩をもう一度焼いてサラサラにして溶けない焼塩にする発想は、多湿多雨のアジア固有の生活の知恵から生まれたものです。

塩に付着するにがり(塩化マグネシウム)は吸湿しやすく溶解するため、釜から採った粗塩を土器や鉄釜で500~700度の高熱で焼くと、にがりの塩化マグネシウムが熱で酸化マグネシウムに化学的に変化して、湿らない塩になるからです。

また、塩自身にも吸湿性があり、夏場の湿度が75%以上になる塩が吸湿して溶け、湿度が低くなって結晶化するという過程を何度も繰り返すと、塩の結晶がくっついて固結してしまいます。焼塩にしておくと、塩の結晶表面が酸化マグネシウムでおおわれるので固結現象を防ぐことができます。

生活の知恵で食卓塩の容器に炒った米を入れておくと、炒ったコメが塩化マグネシウムよりも強い吸湿剤として働くともいわれ、固まりかけている塩をほぐします。

現在、流通している精製塩(天日塩を溶解再結晶した旧専売の食塩)は、純度が非常に高い塩のため、湿度の高い日本では固結しやすく、サラサラした状態を維持するために塩基性炭酸マグネシウムが添加されています。イオン交換膜法と真空式蒸発釜の組み合わせでつくられている食塩のマグネシウム含有量は、0.02%程度で吸湿する度合いが低く、焼塩にする必要もありません。

焼塩は高温多湿な風土からうまれた先人の知恵であり、古代から綿々と引き継がれてきた焼塩づくりの歴史は、わが国の美味しい塩の系譜といえます。  

古来中国で中国の道家が不老長寿を願って焼塩をつくったのが焼塩のはじまりといわれています。漢方では、塩は陽性の食べ物で、焼いてエネルギーを与えると一層陽性が強くなるといわれ、漢方薬の薬石として、血液をきれいにする浄血作用、体内の毒素を消し去る、炎症を抑える作用などの効能があるといわれています。

粗塩を高温で長い時間かけてかまどで焼成することによって、塩に含まれている酸素や窒素化合物が気化し、無機質のミネラルになるため、にがりを焼き切った塩が身体に優しい塩になることを先人たちは体験的に知っていたのでしょう。

韓国の有名な竹塩は、竹筒の中に粗塩を詰めてかまどで焼いたもので、竹炭の混ざった焼塩が身体に優しい薬効のある塩として知られています。

わが国では。むかしは妊婦に焼塩を食べることを薦めています。また粗塩をフライパンで焼いて布に包んで、腹にあてると寝冷えや腹痛に効くとも言い伝えられ、焼塩をつかった民間療法が数多く伝承されています。

なぜ焼塩が体にいいのか、科学的に立証しようと試みのひとつに、還元力を根拠にした考えがあります。物質が酸に反応すると錆びて酸化し、この酸化物から酸素を摂り、元に戻すちからを還元力といいます。

ミリオンセラーとなった『病気にならない生き方』の著者、新谷弘美医師*は「還元力の高い焼塩」を推奨しています。酸化力の強さを測定する酸化・還元測定器で焼塩を測定すると強いマイナス(還元力)の反応が出ることから、焼塩の抗酸化を実証したものです。ちなみに都市の水道水は高い酸化力を示し、美味しい湧水は数値が低く、どれも還元力の強い水であることが分かります。

高温で長時間燃焼して有機化合物を焼き切り、金属ミネラルの塊にすると、金属元素が出す電子の量が増えて還元力が強くなるのが科学的な根拠となっています。

*米国アルバート・アインシュタイン医科大学外科教授 腸内内視鏡のパイオニア

 

現代に蘇った藻塩

近年、考古学に基づく藻塩焼を実証しようと、海岸の古代遺跡で藻塩再現の実験が行われています。干した藻に海水をかけて濃縮塩水をつくり、煮つめる方法では、褐色のわずかな量の塩しか採れず、昆布の強烈な臭いの塩になってしまいます。

藻を焼いた灰を海水に溶かして煮つめる方法でつくられた塩は、黒色の塩になってしまうといった具合で藻塩の再現が上手くできないでいましたが、この謎に包まれた藻塩焼を現代に蘇らせた人がいます。

昭和57年(1982)、広島県蒲刈島の住職松浦宣秀氏(故人)が沖浦海岸で古代遺跡の発掘調査において、黒い層をなした土器製塩の跡を発見したのをきっかけに、島の住民が藻塩づくりの実験を手伝う「藻塩の会」が発足し、10年あまりの実験を繰り返し、ついに乾燥した「玉藻」とよばれるホンダワラを焼いた灰塩を海水で濾して土器で煮詰める藻塩の再現に成功しました。

その藻塩づくりの工程は、天日乾燥したホンダワラを繰り返し濃縮塩水に浸し、天日で干した藻を焼いて、その灰を先の濃縮された塩水に溶かすと黒い液になり、それを布袋で漉して灰を取り除いて一昼夜おきます。すると薄い黄色の液ができあがり、それを平釜で煮つめると薄茶色の藻塩ができることを実証したのです。

はじめて焚きあがった藻塩の味の感想は、「灰くさい塩であるが苦味がなく、だし昆布で煮だしたようなうま味のある塩ができた。ホンダワラは乾燥が早いので塩づくりに最適である」と語っています。

平成8年(1996)に同島で開催された「古代の塩づくりシンポジュウム」において、藻塩の土器製塩の実験結果を発表、古代の藻塩焼を現               ↑海人の藻塩

代に蘇らせた試みは、藻塩焼きの実態を解明するのに大きな手がかりとなり、考古学会からも認められ大きな注目を集めます。                       

塩の自由化が始まると、現代に蘇った藻塩は「海人の藻塩」として商品化されます。

その近代化された藻塩製法は、はじめに瀬戸内の海水をろ過して7倍に濃縮した海水にホンダワラを浸して海藻のエキスを抽出、次に平釜の大鍋で約6,7時間煮つめ、シャーベット状になった塩の結晶を遠心分離器で脱水し、平鍋に移して「から煎り」してサラサラな藻塩に仕上げます。

「海人の藻塩」は、天ぷら、焼鳥などの振り塩に最適なうま味のある塩で、味を引き立てる隠し塩として和食を楽しむことができます。

 

カンホアの塩「石窯焼塩」

ベトナム中部にある古都フエでは、むかしから宮廷料理に天日塩を石窯で焼いた塩を食用に使われていました。数十年前に途絶えていた石窯の焼塩づくりを、ひとりの日本人がベトナムのカンホアの塩職人たちと共同して現代に蘇らせました。

南北に細長いベトナム。その海岸線は3,000kmにも及びカンホア・プロヴィンスは省都ニャチャンから、50kmほど北へ行ったところにあり、青く澄んだ珊瑚礁の海が視界に広がる沿岸に位置しています。

この地方は昔から天日塩がつくられていましたが、ベトナムの仏領時代(1887~1954)の1920年頃、ここにフランス人によりブルターニュ地方の天日塩田と同じ設計でつくられてから、塩の生産がぐんと上がり、ベトナム有数の塩産地となりました。

取水口から引き込まれた海水は、調整池、蒸発池の順に流れていき、徐々に小さな塩田に移していくうちに、天日蒸発で海水濃度が30ボーメ位になると、最後の一番小さな結晶池に移して塩の結晶を収穫します。

雨期の間は全く塩を作らず1~2月の乾期の始まりとともに、塩田の整備を始め、その年の40℃を超える乾季の数カ月で塩作りの最盛期を迎えます。

オーストラリアやメキシコなどの大塩田では2年もの長い時間をかけて結晶を成長させるので小石のような大きな結晶となりますが、浅張りの結晶池では結晶速度が速いので小粒な結晶になります。「カンホアの塩」は、塩田の粘土が混ざらないように蒸発池を黒いタイルを敷きつめて、きめ細かな結晶が採取できるように改良しました。

塩職人たちの手で採取した粗塩は、石臼で挽いてから陶器の壺にいれ、独自に開発した石窯で平均温度600度位の↑↑ 「カンホアの塩」石窯焼塩  (有)カンホアの塩提供


高熱で三日間かけて焼き上げます。昔のフエの石窯では300度位で焼かれていたといわれ、カンホアの塩「石窯焼き塩」は、それよりも高い600度の高温で焼成する窯に改良したのは、300度以下の温度で1週間も焼いたら美味しさが半減するといわれ、温度と焼成時間が塩の微妙がうま味をつくるという開発者のこだわりがあります。高温で焼成された塩の結晶は細かな粒の中にカルシウムなどの微量ミネラルが含まれ、塩角のない洗練された塩味に仕上り、かつてフエ王朝の料理文化を支えていました。

今から400年前の室町時代、ベトナムのフエ王朝の焼塩は、堺商人の交易によって日本に伝わり、泉州堺で真塩を石臼で挽いて素焼きの壺に入れ、瓦を焼く竈で、「壺焼塩」がつくられました。その繊細な塩味をめでた京の女院御所より「天下一」の称号を与えられたと伝えられています。

現在のヘルシイなベトナム料理には、どこか日本人の味覚によく似ています。

平安時代、京の都の貴族や公家は、料理に塩荘園から献納される焼塩が料理に使われていましたが、塩角の取れた洗練された焼塩には共通した塩味です。

ひとりの日本人が、ベトナムの伝統的な石窯焼塩を復活した「カンホアの塩」は、わが国の「身体に優しい美味しい塩」の系譜である壺焼塩伝来のルーツです。  


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考文献

 

 

第一章 塩の世界

『塩と文化』 山田清著 日本塩業協会

『生命にとって塩とは何か』 高橋英一著 農文社

『塩なんでもQ&A』 (財)塩事業センター

『塩の科学』 橋本壽夫/村上正祥著 朝倉書店

『塩の世界史』マーク・カーランスキー著 山本光伸訳

『山西古跡誌』水野精一/日比野丈夫著 (1956)

『日本塩業の研究』第28集 日本塩業研究会編

「中国における海塩生産技術-晒法の展開」

『塩の博物誌』ピエール・ラズロ著 東京書籍

『日本塩業の研究』第30集 「中国華北の土塩について」渡辺惇著

『知っておきたい味の世界史』宮崎正勝著 岩波新書

『塩の文明史』 佐藤洋一郎共著 NHKブックス

『東方見聞録』 マルコ・ポーロ 東洋文庫

『塩鉄論・漢代の経済戦争』 垣寛著  平凡社

『日本塩業の研究』 第28集 「中国における海塩生産の技術」 渡辺惇著 

『天工開物』  宋応星著 平凡社

 

第二章 美味しい塩の系譜

『塩の話あれこれ』 日本専売公社編

『日本塩業体系』 原始・古代・中世 日本専売公社

『塩の日本史』 廣山堯道著 雄山閣BOOK.S

『古代日本の塩』 廣山堯道/廣山謙介著 雄山閣

『日本塩業の研究』 第25集 「古代社会における塩とその形状」 村上正祥著

『塩の道』 宮本常一著 講談社学術文庫

『味覚三昧』辻嘉一著 中央公論社

『塩・薬か毒か』 牛尾盛保著 浪漫 昭和(1975)

『海の精を求めて』 日本食用塩研究会編 (1990)

『大日本塩業全書』 日本専売公社編

『日本塩業の研究』 第28集 「塩釜(結晶釜)・煎ごうと投木」 廣山堯道著

『日本塩業の研究』 第28集 「中国における海塩生産の技術」 渡辺惇著 

『渋沢敬三著作集』 第一巻 平凡社

『行徳塩浜の変遷』 千野原靖方著 崙書房

『下総行徳塩業史』 アチックミューゼアム刊行

『枝条架の源流を探る』加茂 詮著 ソルトサイエンス『小野友五郎の生涯』 藤井哲博著 中央公論

『東京再製塩業史』 橋本今朝七著東京再製塩業刊

『風土記の考古学』常陸国の巻 渡辺誠著 同成社

『塩の話あれこれ』 日本専売公社編

『藻塩焼考』 渡辺誠著

『塩の道』 宮本常一著 講談社学術文庫

『日本の近世4生産の技術』葉山禎作編中央公論社

『日本塩業の研究』 第25集 「古代社会における塩とその形状」 村上正祥著

『赤穂流製塩業』 広山尭道著 赤穂塩業資料館

『塩の道』  平島裕正著  講談社

『日本食塩販売史』  全国塩元売捌人組合連合

『宋代塩業史の基礎研究』河上光一著 吉川弘文館 

『江戸湾塩業史の研究』  落合攻著  吉川弘文館 

『瀬戸内の塩』  広島県歴史博物館 1989 

『塩の道を探る』  富岡義八著  岩波書店

『塩道と高瀬舟』  富岡儀一八著  古今書院

『塩の道・米の道』 山本茂美著  角川書店

『塩の民俗学』  亀井千歩子著  東京書箱

 

三章 塩の近代化

『塩の科学』 橋本壽夫/村上正祥著 朝倉書店

『塩のことば辞典』 編纂日本海水学会 素朴社

『日本の塩』 日本塩工業会 日本食料新聞社

『食塩』  浅野厳著 河出書房

『塩・ソーダ』  山田清著  日本曹達工業会 

『食用最適塩考』 西本友康著 日本自然塩普及会

『東京再製塩業史』  東京再製塩業株式会

『日本食塩製造論』コルセルト著 農務省地質調査所

『大日本塩業全書』 日本専売公社(明39-大正4)

 

第四章 身体に優しい塩

『日本人には塩が足りない』 村上譲顕著 東洋経済新報社

『自然塩健康法』 武者宗一郎著 講談社

『いのちの自然塩』 ループ・ポトス著 ハート出版社

『塩俗問答集』 渋沢敬三著 アチック・ミューゼアム

『最新ミネラル読本』 丸元淑生・丸元康生著 新潮社

『世界が認めた和食の知恵』 潮新書

『味覚三昧』 辻嘉一著 中央公論社

『塩・薬か毒か』 牛尾盛保著 浪漫社

『食塩と健康の科学』 伊藤敬一著 講談社

『逆転の健康読本』 青木久三著 PHP研究所

『食品の裏側』 安部司著 東洋経済社

『食塩と健康の科学』 伊藤敬一著 講談社

『生命にとって塩とは何か』 高橋英一著 農文社

『塩なんでもQ&A』 (財)塩事業センター

『もっと知りたい塩の話』 山原條二著 英伝社 

『アミノ酸の科学』 櫻庭雅文著 講談社

『いのちは海からの贈り物』 知念隆一著日本館書房 

『塩は身体を温め免疫力を上げる』石原結實著経済界

 

第五章 料理を美味しくする塩

『食味』 辻嘉一著 PHP研究所

『身体を壊す10代食品添加物』渡辺雄二著 幻冬舎

『うま味の誕生』 柳田友道著 岩波新書

『うま味の発見』 河村洋一郎/木村修一共著 女子栄養大学出版部

『日本の食文化』 平野雅章著 中央公論

『塩まだ不安ですか』 加藤敏郎著 農文社

『味覚三昧』 辻嘉一著 中央公論社

『塩上手は料理上手』 フルタニマサエ著 主婦と生活社

『西洋食物史』  山本直文著 柴田書店

『塩の事典』 橋本壽夫著 東京堂出版

『食べる日本史』 樋田清之著 柴田書店

 

『食物と日本人』 樋口清之著 講談社

『食の文化誌』 大塚滋著 中公新書

 

第六章 美味しい塩の選択

『ゲランドの塩物語』 コリン・コバヤシ著 岩波新書

『自然味の職人たち』 吉羽和夫著 新日本出版社

『屋我地の今と昔』 沖縄国際大学小熊研究室

『オーガニック革命』 高城剛著 集英社新書

『オーガニック入門』 岡村貴子著 ソニーマガジ

*各社パンフレットとホームページ及び現地取材

*第一章から第五章までの参考文献と重複

 

最終章 21世紀の塩を訪ねて

『屋我地の今と昔』 沖縄国際大学小熊研究所

『公正競争規約』 公正競争規約準備委員会

『塩』  片平孝著  朝日新聞社

『自然味の職人たち』 吉羽和夫著 新日本出版社

 

■参考資料

『テキスト自然塩』 日本自然塩普及会 Ver.1/3

食用塩問題シンポジウムー昭和49年5/20)

『Lohas/book』 月間ソトコト 木楽舎

2007年電通ロハス・プロジェクト調査

『塩のミニ知識』 (財)塩事業センター

日本食品新聞

『ウィキペディア・フリー百科事典』インターネット

モルトン・ソルト社パンフレットTheHistoryofSalt

『味の味』 アイデア社刊NO.460 大川吉弘著

毎日新聞掲載記事(1001~1013) 

『新栄養』小冊子 沖縄の自然塩 知念隆一著

『江戸を掘る』 壺焼考論文 渡辺誠著

『キッコーマン醤油史』 キッコーマン醤油 

月刊ソルト・サイエンス」 VOL.13 

『味の味』 株式会社アイデア

SALT&SERWATER 2008 

塩事業センター海水総合研究所 講演禄

専売広報誌「味のひとくち」コラム 松本仲子著

『人民画報』 最後の古塩田・海南省 孔文川著

 

 

 

 

 

 

 

 

■著者 増田幸右

1964-1968 武蔵野美術大学 グラフィックデザイン科卒業

1968-1994 広告代理店電通入社 クリエーティブ・ディレクター

2002-2004 立教大学大学院 修士課程

2003-2008 (株)GN21 経営コンサルタント

2007-2010 浦安図書館ボランティアBCU会員

2010-2014 企業ブランドアドバイザー

2006-2014 日本海水学会員


 

 

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増田 幸右 について

1964-1968 武蔵野美術大学 グラフィックデザイン科卒業 1968-1994 広告代理店電通入社 クリエーティブ・ディレクター 2002-2004 立教大学大学院 修士課程 2003-2008 (株)GN21 経営コンサルタント 2007-2010 浦安図書館ボランティアBCU会員 2010-2014 企業ブランドアドバイザー 2006-2014 日本海水学会員
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